春冬のせめぎ

 

 

 

少し顔を出した春はまだ早かったといったん引っ込み冬と入れ替わる。

どちらも好きだがなんだかんだ生まれた季節というのは贔屓してしまう。

 

前日暖かいものだから無警戒の早朝、フロントガラスに氷が張って足止めをくらう。それでも問題なく間に合う。早朝ラッシュのJR名古屋駅はアホほどにスクランブル。新幹線への乗り換えに向かっていると、反対側からこちら向きに満遍なく拡がって歩いてきている。動線を外から作られないと反対から人が来るかもしれないと想像できないのか。こういうのを見ると、人ってどういう世界を生きているのだろうかって思う。特に文句でもないがこんなことを言うと文句に捉えられるから現実的には言わない。

 

名鉄で少しうとうとした。新幹線はゆったりした席だが、あんまりまったりできない。通路越しの隣のカップルの女性が山に興奮していて分かりみ。遠目の山の頂上付近に雪が積もっているのはとても綺麗。あと、全部が聞こえてくる訳ではないから定かではないが、京都に旅行に行っている道中で、寺社仏閣の話もしていた。寺社仏閣も良き。何処かの竹林が最上だが。

 

こういう無関係の人の世界線が気になるのは現実では失礼に当たるのだろうか。失礼だから情報が無い他人の事を想像上で語るのが不文のタブーなのか、そもそもそんな人は世界に居ないのかどちらなのだろう。

 

どうでも良い気になり案件。昨日の日記に顔の整体師さんからスキをいただいたのだが、想像するに「凝り」で語句検索したのではと想った。顔の凝りとは全く関係ない精神が凝り固まれないという話だったが、たまたま語句検索して読んでみておもろいと思われたのであればとても良い世界線の瞬間的接触だよなって。タグ付けしなくてもAIがおすすめ記事にするのかは分からないが、ボトルレターとしてはどちらでも良い。

 

ほんとうにそうかが重くなるのは、それによって現実的な動きが変わるときだけで、根拠が不要で現実的にも特に何もないときにはなるべく面白い誤解をした方が楽しい。

 

朝ごはんにコンビニおにぎりと味噌汁を食べていったん日常に戻る。なんだか元気だ。昼ごはんはお弁当を作っていないから外食。うどんとカレーで迷う。松屋でカレーと野菜のセットを食べた。夜ご飯は下味を付けない簡略版の生姜焼き。

 

仕事では先生が悶えていた。遅番で2人きりになったあとの雑談で日本人の言語能力が低下しているとぼやく。個人的には手放しで賛同しかねるところではあるが、仕事の時はきちんと定義付けられた共通項としての言葉で疎通すべきとは思った。情報伝達って伝わるだろうでは済まないし、あいまいなニュアンスはなるべく排さないといけない。先生の常套句が「どういう意味ですか」にならざるを得ないというのは分かりみ。クライアントとの疎通の齟齬を先生に丸投げされたらたまったものではなかろう。

 

別に自分だけで処理できるのであれば、相手のよく分からない曖昧な問いに応えてあげれば解決になるが、場当たり的な対応をしていたら本当に解決したいことが分からないままになる。僕は結構これで仕事が増えることは部署的には存在意義になるという感じ。解決すべき仕事がなければ法人は存在できない。大阪帰ってきたらどこも水道やら電線の工事をしているのもそうだろうなって。

 

仕事上の問いは人間存在に関わりが薄いから、別に良いだろうなって。

先生が目的を問うのは、仕事には目的があるべきだという効率的世界観があるからだが、目的意識なく漫然と仕事をしている人も居る訳で、そんなマネジメントは先生にとってもサポート対象外になる。世界が違う人に合わせるってとても大変。先生もわざわざ合わせてしまうほど自分が正しいとは思っていない模様。

 

ついでに、女性上司ともたまたま少し話した。

別に嫌いではない。あんまり合わない気もするが、ずかずか聞いてくるのは良いかも。退職事情を話した。上司の上司とは話が着いたって。3月末で辞めるということは予測がついていた模様。鋭い人は良き。

 

やれやれ。

 

主観的世界とはなんぞやということが気になっている。

先生が言語能力は地域にもよると言う。たしかにそういうことはありそうだとも分かるのだが、そもそも自己主張と言語が一致するというのもなんだかおかしいような。だって、言語で自己主張をすることを日本の社会はあんまり是としていないし、主張は情報になって読み手当人の世界観によって解釈される訳で、どうしてもズレるような。

 

ハイデガーさんはダニの世界と人間の世界は違うとしていたらしい。

その違いは人間の認識能力は特別だとしたかったという世界観があったという説はなんとなく分かる。僕はそこまで人間が特別だとは思わない。自由だとは思う。ただ、ここに他種との比較的優位が無い。この自由さは誰かより考えているとか、優れているというものさしではなく、もっと世界に愛を注げる自由。満月さんは愛に飢えては居なさそうだが、僕のを受け入れてくれる器はある模様。

 

満月さんのお友達の先生に紹介できそうな漫画があるなぁとか。

宮沢賢治が重要な存在になっているやつ。

 

僕は人の本質を言語表現できるような存在としていないみたい。

これを言語表現して疎通するのは無理だから、相手の言語表現上の「僕」の存在に合わせるようにしていたが、そこに付き合う理由は全く無いんだよなとなる。誰かの世界における登場人物である必要はない。

 

となると、逆に言語表現が解放されるのか。

満月さんのまるっこさは可愛い。ただ、下半身が反応しないのは裸体に対する恥じらいがないからではないかという説とか。

 

たぶん何を言っても失望されないという意味では、随分と甘えている。

こういう意味で甘えられる人は初めてだろうな。

 

はい、ここまで。

おやすみなさい。

 

良い夢を。