花びらふりかけ

 

 

何事もなく日常通りのルーティンに還ってきました。昼休憩で公園に行ったらお花見パニックで宴会だらけだったから宴会の気分になっていたが、考えていた可能性が全部無かった。思いの外がっかりしている。

 

僕が持っているシフト表では同期と先生と僕の出勤でそのままかと思っていたら昨日確認すると同期の代わりに新人さんだったから、用事があるのだろうかとなったが、これだけだと日中用事があるだけという可能性もあるからまだ分からない。

 

一応送別会の主賓であって幹事ではないから、動向をいちいち聞くのも無粋だしなかなか難しい。トータル、がっつりがっかりしている現在。口だけになったら嫌だなぁ。まぁ、そうなったとしたら、縁の階層がもやはずれてしまっているだけという気もする。時空というか生活圏が近くてもズレた人とはタイミングが合わなくなるという説。そこを意志で合わすことはできても無理はどこかで復讐しにくる。

 

別日と言っても、4月の出勤の週末あと3回しかなく、そのうち一回は満月さんに誕生日を祝ってもらうという先約済みだから、望みが薄い。話したかったというより話すことはあったよなというニュアンスで、無かったとしても特に悔いはない。だからこそのがっかりというニュアンスは通じるだろうか。

 

仕事は3人だったが、仕事量半分をきっちりさばいた。凄くどうでも良い人間観察。本日一緒に勤務した新人さんの仕事振りは全然好きではないのだが、一般的時給仕事の感覚とも言えそう。相手が何を求めているかではなく、自分の仕事の処理と捉えているから、自分にとってどうなのかでしか世界が見えなくて、曖昧になっている。

 

先生は仕事においてその曖昧さを収束する言葉として「目的」を遣っている。どうしたら良いかではなく、どうしたいかによって動くのが仕事だろうと。

 

新人さんを槍玉に挙げるのはなんだか申し訳ない気がしてこなくもないのだが、仕事振りを眺めていると、確認の遣い方も相手にここを確認させて安心させるという慮りはなく、あくまで自分の仕事として落ち度がなかったかという安心のための確認だから、ポイントがズレて仕事が長引いているように見える。これだといくら知識が増えたところで相手を安心させて完了にはならず、不安が尽きないと思う。

 

精神的に不安定(悪口ではありません)になっている様相のnoteの相互さんが、勉強は不安な時にしかできないと呟いていた。なるほど、とても本質を突いている。何か有意義なことをしていないと不安になってしまうという心理。僕も資格試験の勉強をしていた10年間くらいずっとそんな感覚があった。これをしていないと不安というより、これをしていないと生きている意味が無いくらいな感覚。

 

防衛本能というかそうやって何かをしていることに対して依存しているのだよな。これをしていれば生きても良いって。ただ、これは勉強だけの話でもないような気がする。生きている意義なんてなくて良いのに、それが正解だという風潮が蔓延している。

 

続けて、先生と新人さんの話。新人さんはよく喋っているのに、雑談には入ってこられないみたい。朝一先生と桜具合を話していたのだが、自然については無頓着らしく入って来なかった。朝一と言えば、先生にお誕生日おめでとうと言ったら嬉しそうにしてくれた。何の物質的、精神的交換も無いのが発言として現実化した甲斐がある。

 

自然に対して良くも悪くも反応できなくなっている人格は結構やばいと勝手に想っている。もちろん発話しなくても何か中身で反応が起こっているのであれば問題ない。

 

あと、僕的人格判断なのだが、自分にとってどうかということと別に他人のことを観測して描写できる人は自分のことも客観視しているから付き合いやすい。正直あんまり居ないと思う。分裂してややこしくなるからあんまり良い世界でもないような気がしなくもないが、僕は基本的にこの世界の住人なので。

 

例えば、筆頭は先生。先生は京都人だから情が無い(京都人に対するヘイトスピーチではなく、好きな形質という意味。もう1人の京都人も)のだが、きちんと人のことも自分のことも観測していて、内心があんまり現実化しない。先生のことを主観的に使い勝手が良い上司だと思っている人は、先生のことを(自分にとって)良い人だと観測していると思うが、実際はそんなことが全くないところが良い。

 

情ってあくまで外の共通項の水準みたいな話であって、感情豊かに見える人が情が厚いことを現実にしている訳でもなかろうな。

 

僕も基準が雑いから(都合が良い)人だと見られがちだった。僕のことを消費するだけの人とは離縁しないとしんどくて断捨離。僕は愚痴を言い合うとか過去の記録を掘り返して暖を取る関係に面白みを感じない。これからとかいまの話で更新がないとつまらない。

 

別に新しい話題とかではない。変わらない部分があるのは当たり前だが、生きている上で変わる部分がないはずがない。だから、退場した人はどこか別の領域に押しやられるのに、変わらないところしか前提としない関係ってどうなのだろう。

 

ここはまぁ、「生きる」の定義による。先生が定義をしっかりしないといけないって毎日のように言っているから、でもなく、僕もずっと人が発する言葉って広辞苑的な定義とずれているから、その言葉をどう定義して使っているかがずっと気になっている。別に感覚的というか挙動だったりコピペだったりで遣っているだけだから、問われても特に答えられないのだろうなという感じ。

 

僕も、言葉をどういう風に遣っているかは応えられても、何故それを言ったのかって聞かれたら答えられない。同期も理由も特にないから。

 

いや、ここを問題にするのも分かる。言葉が実存としての存在と一致しているという前提ありきなら。僕としてはそんなことは不可能だし、相手が言葉として発したことが実存と一致するのはどうあっても無理だし、言葉はそれくらいの意味しか当人と繋がっていないという説。

 

という意味合いで考えると、言葉って疑似的な人格として観測されるものなのかな。

ソシュールさんが差異でしかないとひねり出したのも分かりみ。

 

人が他人を感知するには言葉では足りない。

SNSだと言葉は単なる挙動になる。変な話、ニュースという定義が適切なのかも。

 

どうでも良いといったらよろしくないかもしれないが、満月さん一家のお父様は言葉を全然発さない人。僕との会話も無かった。だからと言って、とくに蔑ろにされている感覚はない。この人が大黒柱だからこの家族が回っているのかと思った。別に声を上げなくても存在は在るし。

 

個人的に色々いちからこの感覚で読み直したいと思っているが、全然勉強ではない。知識として蓄積していないから、何か読んでも障りがない。これは今まで生きていた正解と違うぞ、だから排除するか、みたいなメカニズムが働かないからいくらでも読める。

 

1Q84の世界では月の描写がいっぱいあって良い光景。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。