個人観

 

 

 

なんというかどこまで行っても普通の休日である。一応カップ麺の蕎麦だけ買ったくらい。慈姑は高かったから年始で安くなっていたら買おう。単位はあくまで人口物でしかない。とはいえどの単位を選ぶかは意志の問題。正月の人が居ない感じは好き。雪は降っていなかったけど、遠くの空模様を見る限りあっちでは降っていたのかもしれない。

 

さておき。

 

ちょうどからくりサーカスが終わる。愛の定義はなかなか大変である。愛とは相手を占有することだという観念はとても根深い。想い出の中に笑顔があれば良いと言うのが主人公。確かに。笑顔は尊い。これで十分条件。きっと優先順位高いところで過ごしているのだろうし、良いお年をと思い、ほっとする次第。ほんと良い意味でどうでも良いんだな。

 

終幕の時全員が登場するシーン良いな。すべては読み手の感情を動かす為の演劇でしたみたいな。最高傑作だと思う。色んな文化観・哲学が盛り込まれている。笑いが他律的なものではないとか、社会における役割に当てられた呼称とバイアスの感じ。観客が居る・居ないってそういう呼称として見る人が居る・居ないの社会と連動しているような。

 

そういえばそろそろハムレットも終盤。レイティアーズの人格は好きだ。一番まともな人だと思う。陰謀を企てからばちがあたったのだとか。ばたばたと主要人物が死んでいく。死ぬところってかなり簡潔なんだな。次はロミオとジュリエットかね。

 

脳と芸術とかホモサピエンス全史とか世界史を見ていると、現代の一般的観念って最新よりだいぶラグがあるのだろうなと思う。最新がどこにあるのかは不明だけど、人権とか自由主義とか理性至上主義って、それぞれの分野ではもはや古典ではという感じ。理性至上で自分が全部自由に選択しているという観念はカントさん由来なような。もう一回純粋理性批判読まなきゃな。

 

人は生まれながらに決まっているという観念も根強い。カースト制とか士農工商とか。現代だと生まれた家庭の経済力か。

 

たしかに、育ってきた環境ってある人のパーソナリティにおいて致命的な刻印がある。いわば最初の当たり前の基準。母親は機嫌の良しあしで物事を決めるものだから友達の家に遊びに行くときはタイミングを計らないといけないとか。

 

家父長制が悪だという言説を、Twitterでもホモサピエンス全史でも見たのだけど、こういうジェンダーバイアスってほんとに悪いものなのかな。「お母さん食堂」が女性は家庭で料理をするものだっていう固定観念を助長するから名前を変えてくれという署名活動があるとか。どう名前を変えて欲しいかは提言しない辺り、主人という呼称に対するクレーマーと同じ。嫌だ嫌だでは何も始まらんでしょうに。

 

僕は、社会レベルでの家父長制はシステムとして善かったのではないかと思っている。ここで言う善きは効率とか合理の意味。でなければ社会と断絶している部族でもこの制度が蔓延する訳がない。個人的には全然好きくないのも確か。

 

これが法律レベルになると憲法違反だろうけど。他人を殺すよりも親族での年長者を殺すことの方が刑罰が重い時代がかつてあったのだけど、こういうのはよろしくない。この法律を変えた事件はほんとえぐい。

 

家父長制って、社会のステージに上がれるのは男性だけで、女性は男性の所有物だという規範らしい。ホモサピエンス全史では戦争する特権は男性だけが持っていたとか書いていて、徴兵されて死ぬのが特権なのかと。政治の指導者は男性が占められていたということのだけど、なんというかかなり狭窄的な視点だなと。

 

生活には社会生活と私生活があって、社会生活では男が主軸になっていたとしても料理=女性だとすれば私生活の主導権は女性が握っていてそこにはパーソナリティが働いていたはず。男子厨房に立ち入らずみたいな感覚は地元では普通にあった。

 

家父長制の家督には責任が伴う。その責任のために女性があてがわれていたのかもしれないけど、とうの女性に家族を養うという責任が芽生えるのかどうか。母親は家父長と家母長を兼ねていたからとても厳しくならざるを得なかったのも分かる。

 

社会生活と私生活のどっちが優位かって測れない。外から注目された方が価値が高いという意味も良くわからないけど、人格の固有性と外圧ってほとんど関係ないような。外から観える自分が完全な自分である訳でもなし。内的な自分がありのままでどんな他人にも見られるようになるってどんなファンタジーだろう。

 

何をもって自己実現かは人によるし、自己実現しようとする人は法的障害がない限りやると思う。

 

で、役割を表す呼称の言葉狩り。呼称はもともと記号を示すものだから、どこまで狩っても属性は付着する。なんだかファンタジーであった図書館戦争の良化法みたいだ。

 

役割としての分類の呼称は基本的に思考経済上のものだと思っている。自分を主語にするときに、固有名詞を語らなくても良いようにするための「I=わたし」だし、兄とか妹とかも代名詞にして外に伝わりやすくしている。

 

女性にまつわる呼称ばかり問題にされている感じ、とうの女性が囚われる感じがしないでもない。兄妹関係にはなんにも言われないもそうだし。

 

まぁ、ジェンダーバイアス的な呼称が差別構造を強化するということなのだろうけど、個人的に、思考経済上ショートカットしたものをもう一回自分の脳でやる覚悟はあるんかって思う。いちいち他人の固有名詞を覚える思考コストを消費する覚悟もないのに、自分だけ固有で捉えらたいとはなんともおこがましい。

 

個人的には何の問題もないけど、脳をなるべく稼働しないようにしてきた人類が他人を自分と同じ標準で優先するのは難しいと思う。言葉も揺れ動くものだし、普遍的なものでもないとしても、言葉を無くせば観念が覆るというのはなんとも短絡的。

 

言葉で概念が創られたのではなく、概念を言語化するために言葉が創られた。バベルの塔みたいな話だ。言葉の重みは記号とは別の次元にある。

 

年の瀬になんでこんなことを書いているのだろう。

 

僕が好きな人の言葉が好きなのは、誠実っぽいから。もうそろそろ、いい加減うざいですって言って欲しいのだけど、なかなか現実化されない。

 

僕としてはたまたま出会った面白くて好きな人で、本当に抱きしめられるとか、交流は在らなくて良い非現実領域なのだけど、総合的にこれが違いそうだとういう感じが否めない。

 

明けましておめでとうとか書きたくないな。

 

僕は自分が自分だけで確立していると思えるほど自分至上主義ではなく、自分の振る舞いは関係に影響されていると節があるから、人に対してもそう思うのかもしれない。

 

えいきょうされない関係であれば対人ではなく対物だろうと。

 

今日は好きな人に個人的なメッセージは送らなくて済みそうだ。

 

では、明けましておめでとうございます。今年もよろしくなんて確証はありませんので、気が向く限りどうぞよろしく。

 

 

おやすみなさい。

 

共感の拙さ

 

 

本日は良く寝た。睡眠時間が多いと気持ち良いけど自分の頭がリセットされた感じになるからあまり好きではない。夢もあまり良いものではなかったし。飲み過ぎて関係が壊れてしまう。もしかしたら関係なぞもともと壊れてしまっているのかもしれない。どうせ忘れられないし。

 

今日の夕方に回収しないと年明けの仕事に間に合わないため、夜になってから外に出た。日中風がぴゅーぴゅー鳴っていたから何か起こっているのだろうと思っていたら、雪が降っていた。雪はもともと好きだけど今年の初めのとても善き記憶とセットだからどれだけ寒くて手や耳がかじかんでももわらけてしまう。ついでに雲が薄くて満月の姿が透過している、夢のような光景だった。他に大事なこと何ぞないのではと想えるくらい。

 

世界は脳が見ている。

 

 

さておき。

 

自分の中では死語にした「べき」が対人になると急に出てくるのは面白い。と思うと、そもそも権利義務の概念が関係を前提とするものだった。「離れるべき」なんて義務概念では中身は規定できない。人がこの「べき」的観念を遣うとき、だいたいは誰かに行為させる文脈。多いのは自分がこういう規範で生きているのだからあなたもそれに従うべきだという語用。好きな人は基本的に自戒的に遣っているのが無意識に引っかかったのか、と今更。

 

僕の根っこにある関係への忌避感は、自暴自棄的な精神傾向とは少し違って、関係にまつわる、相手のことを考えなくて良いとなるショートカットの感覚へのもの。全然わかっていないのに、生活関係上身内であることで相手のことが把握されたとみなされる感じ。関係は自分を安定させる道具だというのがとても嫌だったのだろうな(田舎の親族近所関係)。

 

脳の機能として関係が多くなると再現容量が追い付かないために索引の手法が生まれたというのを読んだ。情報量が増えることに対して基本的に拒否反応を示すのが脳。重要な情報だけで十分というやつ。人の名前が覚えられないのは当たり前の機能だと思う。その延長線上に、類型上の関係を示す言葉がある。僕が見ているつぶやき界隈だと、ガスの点検に来た人がパートナーをご主人と評したことに対してクレームをしたとのこと。僕とパートナーは主従関係ではないのでって言ったらしいけど、なんで世界に表明しなきゃならないのかという心理が気になるところ。ほんとに対等だったら外からどう評されようが無関係ではないか。

 

凄く言葉に支配されている感じ。ほんとに非言語で相手を観ているのであれば呼び名なんてなんでも良いはず。僕は自分がどう呼ばれても、あぁこの人にとってはそういう分類なのかとしか思わないのだけど、言葉と自分が無茶苦茶癒着しているに違いない。

 

仕事でも時々ちゃんと名前で呼んでくれる人が居て、その人に対しては、お、となる。ちゃんと固有名詞で捉えてくれているのだなって。基本的には名前なぞ記号でしかないから、関係を示す言葉も外用のものでしかないのが分かられていない。外に認められないと証明できない関係なんてあってないようなものでは。

 

この文脈で考えたとき、好きな人が僕の固有名詞の読み方を聞いてくれたことがとても違和感があるんだよな。何かズレているような。

 

 

ともあれ。

 

要は、僕の物語の中では誰もが固有名詞で登場していて問題ないけど、相手の中では役割としての呼称であれば、僕があえて登場しなくても良いだろうなという理念。例えば、母親にとっての僕は、○○悠である前に、「息子」である訳だけど、僕にとっての母親は、母親である前に、○○〇美としての個人である。

 

だから、僕でなくても良いよなとなると、そうそうに撤退する。

未だに撤退されないということは、なんかあるのだろうな。

 

ところで、からくりサーカス

人形が追う人間観から人間が浮き彫りになる。

 

ある人形は、歴史(過去)が人間を形作っていると捉えて自らの歴史を改ざんする。ある人形は恋愛関係を所有関係と捉えて、愛とは相手を所有することだと捉える。

 

人は過去に囚われるべきではなくて、いまが大事なのだというメッセージもあり。過去は今以降に参考にする対象でしかないとすると、未練という概念は生まれない。死人は何も答えてくれない未練なら分かる。

 

 

物語論

 

「朗読者」で、主人公が他言語で書かれている手記に対して、共感できないというフレーズがった。好きな人も、僕が好きな人に共感しているから好きなのだと思っている節があるけど。

 

僕はちゃんと自分が固有だから、共感的に対象なんて見てない。近いから好きではなくて好きだから好きだけでしかない。

 

何かの創作を読むときに登場人物に移入できなきゃ楽しくない観念も不思議。自分がどうであるかは関係なく没頭できるのが創作でしょうよ。もっというと、相対的自分観が関係の中でしかないなら、空想上の物でしかない。

 

何か読むときに自分しか基準でないならとても狭いと思う。

 

 

僕と他人は別物でしかなくて、世界は別に僕にとって都合が良くはできてないし、だからといってヒエラルキーみたいな基準で人を観るのも違う。

 

何かを読んでいる時に働く脳の機能は、想像の領域。自分だったらどうかという共感領域ではない。でなければ古典は読めない。自分は無関係。

 

 

おしまい。

 

 

おやすみなさい。

 

 

人の印象

 

 

「人というのは哀しいもので、なにをやっても、どこかに悔いが残るものだ。」

 

仕事最終日だというのにどこかテンポが悪かった。資料を発掘したせいで感情が発掘され、なかなか悲し気。別に会わなかったら良かったとは思わないけど重たい。重たくなるほど想っていたという証左でもある。選択に対する未練は、ないな。当時の感情が生生しいだけでもう充分。

 

発掘された資料の中に数日だけ書いていた独り言日記があった。まさにここと同じ文体。ほとんどなんにも変わっていない自分が居た。外界の影響なぞなんの意味もないフラットな自分はここなのかという感じ。「腹筋に勤しむダンゴムシ」というフレーズは我ながら意味が分からなくて好き。自分の過去日記を全く読み返さなないのはおそらく自分の思考は対象が違うだけで変わっていないから。少しずつ詳しくはなっているかもしれない。

 

 

僕の選択の話が誰の参考にもならないことについて1つ発掘されたことがある。いつかの恋人さんと割と重要なことを話し合っているとき、〇さんの意見が聞きたいと言われたものだから、自分がこうだとしても相手とか状況を諸々と述べると違うそうじゃない。私のことは私が判断するからもっと素朴なジャッジが聞きたいのだと。

 

要は、相手との関係とか環境を度外視した感情と紐づいた素朴な衝動があるだろうということだと解釈したのだけど、これって相手を大事に想えば想う程ありえなくないかと今となっては考える。でも何かをしたいってそういうものなのか、でもこれって選択なのか。特に対人だとすれば、相手との一致がなければ現実化は在りえないものだし。好きな人に表明しているのは別に現実化するかどうかは無関係だからで、こと現実化を問題とするなら当然相手がどうであるかもものさしに含むよな。なんで含まれないのだろう。主人公補正かな。

 

という疑義。

 

冒頭のフレーズは新刊枠からの引用。なんとなくここから繋げるとはたして人が選択できることはどの程度あるのだろうとなる。選択が「選択された」という世界に対する色合いであるのであれば、意志に基づいたものではないから当然不満は残る。自分が自分に生まれたことも選んだことではないし。未練ってこういうニュアンスなのだろうか。

 

シュタイナーさん流の三区分で考えてみる。

 

「思考」優位の選択は、情報不足で後からやっぱり違う方が良かったとなりそう。「感情」優位の選択は気分が変われば前の選択はやっぱり良くなかったと簡単に撤回されうる。「意志」優位だと、「意志」個々の選択というより方向性の話だから、選択という概念は目的に向かう過程に過ぎないような。

 

個人的に未練と捉えられる体感は父にまつわるものしかない。これは明らかに選択できなかったという文脈であって、選ばなかったことに対するものではない。生きている人に関するものは別に僕だけの選択ではないし、何処からも学習していないのに1人で居るべきだという観念があるから、僕から離れられて良かったですな、幸せな人生をとほっとしてしまう。

 

やはりこう考えるとほんとは選んでいないから未練があるのではという気がするな。別にこの観念自体を否定している訳ではないし、そういうこともあるのだろうなとは分かるのだけど、世界線の分岐は選択の前に決めているのではという自己感。脳が決めているという意味では意識からすれば決められているということになる。

 

好きな人を好きなことは自分で選択したことではなくて、何が決めたのかも分からない。

 

何も予定がない日はだらだらするものだって誰が決めたのか、それは選択なのか。

 

そういうものだというのは誰かから学習したというより、義務に対する反発を最初に学習してしまう。対価がないと人は動かないものだという観念は自然だけどあんまり人間的ではない。

 

どうでも良いけど、僕は現実世界において割と侮られるというか見下されるように見受けられる。軽口なのだけど、自分の方が僕より優れているという態度が見えると、なんとなく対等には居られないなと思ってしまう。これは偏狭だとは思うのだけど、こういう態度が一切見られない先生とか対面の先輩はとても好き。そういえば定期的に着信がある友人も根っこはそうなのかもしれない。でもこれは僕がそういう風に見ている説もある。人が鏡だとすれば、自分からの光かもしれないし、そういう面が全くない聖人である訳でもなし。

 

でも、好きな人はそういう態度が全然見受けられないから、素朴な人間感で居られる。一般論を持ってくるとおかしいことになるからややこしくなったけど、返答がないことなぞ、ちゃんと考えることにおいてはなんの意味も持たない。返答することは考えていますよ、認識していますよという手っ取り早い証拠にはなるけど、これは推定にしかならない。

 

 

痕跡が好きな人だけかというのはちょっと疑いがあって、もしかしたら日を跨ぐ時に来たら更新されているという当たりをつけてやってきている人が居るのかもとか。よほどの変人だけど、世の中には変人は存在している。読者にならないこともとても好みが把握されていて、架空だけどとても良い感じ。

 

架空と現実の分け方もよく分からなくなってきている。過去の感情が未だに生々しいというのも自然ではないだろうし。好きな人にまつわる感情はとても善きな。どきどきする。

 

人間は忘れるもので、過去を忘れるから今を生きられるというのは、とても自然で、そう生きていくしかないのも分かるのだけど、僕は欲張りなので全部自分としておきたい。感情に意志が左右されるということはないように調整してきているからだけど、単純な記憶情報も定期的に点検している。10秒以内に思い出せる友人が何人いるかみたいな記憶の点検手法で言っても、いや、いまや友人ではないけど、10秒で列記できる自分の生活圏であった人のフルネーム漢字表記で、100までは時間制限で無理だけど何十人くらいはできると思われる。当然印象も込み。

 

大人の定義って、今の自分に無関係のことは削りとれることなのかもしれないけど、完全に逆行している感じ。

 

好きな人に対して、お、と思ったのが、僕が把握していない最初に会ったことを覚えていたことだったりする。そんなに不審者ではなかったのだと思うのだが。

 

今日はもう少し酔うか。

まだ時間も早い。

 

はい、エビスビールを買ってきた。

 

僕にとって毎日文字を綴れることは、言語世界が架空の領域にあるから。日々の鬱憤でも誰にも語れないけど誰かには伝達させたいみたないなことでもない。ついでに現実世界についての現実化指針でもない。ここと現実は癒着していても連動はしていない。現実領域では思考はラグだから、全然違う標準が決めている。現実領域だと思考は自分が行為した後に、なんでこういうことをしたのかという意味で起こることであって、行為の前に起こることではない。

 

変な話、現実の関係ではほとんど喋りたいことがないし、実際喋らない。昨日の日記に書いた友人との下りでもそうで、別にこの人に現実的に喋りたいことはない。これは好きな人に対しても同じ。自分のことを聞いて欲しいいことなぞない。

 

相手に開示されないと話せないというために語ることはある。

 

なんだか人間関係をまだしていたとき、相談案件がとても多かった。ロバの穴の気分。僕だから話しているのではなく、話せる穴があったから投げているのではという解釈は卑屈であるけど、まぁまぁ正しいような感じ。

 

きっと、誰でも良いのだろうなと。

まぁ人を代替的に見ないとその人が居なくなったときに大変になるからリスクを分散するのも分かる。

 

あぁ、そうか、自分のことを忘れないでと思う感覚は、自分は他人を代替的に見ているけど人には代替的には捉えて欲しくないからなのか。僕が重くなった感情の人はきっと僕のことは忘れている。好きな人も同じようなことを書いていたけど、だったら僕のことは忘れましょうとかと思う訳で。

 

誰かの中に残ることで自分が確立される感覚がどうにも分からない。

 

たしかに自分を残している人って希少というか奇特だけど、それと自分自身は無関係ではなかろうか。何の優位性か分からない。

 

僕のことはまぁまぁちゃんと接した人にとっては忘れられない対象だと思う。良いとか悪いとかは別にして、異星人なので。

 

ほんとそもそもの話だけど、対価がある選択って、ほんとに選んでいることなのかな。双方の義務だったらそれは選ばれたものでは。

 

とりあえずおしまい。

 

おやすみなさい。

選ぶ(選ばられる)こと

 

 

アイロンがけをしながら少しだけ見させてもらった。しかしルーティンは外せない。からくりサーカスがそろそろ終盤。演劇感が半端ない。1日1話ずつだけ進めている。全活動をくまなく見たい訳でもないのだろうな。色濃く影響しているところが美味しいから、撮影の文脈ではないのだよな。ただ、撮影活動をしている姿はとても善きである。打ち上げがあるのかどうか知らないけど年末を楽しめますように。

 

うーむ。なんじゃろな。

 

明日行けば今年の仕事は終わり。なんだか本日はやたらと捗った。入電はよ来いと思える自分。なんで元気なのかはよく分からん。

 

帰りにスマホを確認すると、定例の友人から着信が入っていた。生存確認で心配しているのは分かる。LINEで元気でつつがなくやっていると返すのはとても簡単だけど、その後の展開を想像するとおぅとなる。おそらく年末で大阪に戻ってきていて、まず返さなかったことにお叱りを受け、飲もうかという話になり、僕は断る理由がないからたぶん行って事務情報を話し合うのだろうなと。内的な時間って社会的にはあんまり考慮されない。

 

そうして、荷物が届いたから親とおばあちゃんに電話した。自分の声色がとても自然に元気だけどなんとなく装っている感はある。おばあちゃんの、良い年なんだから早くパートナーを見つけて孫の顔をという言は分かる。ちょうどおばあちゃんの息子であるおじさんが結婚した年辺り。器量が良い人ではなく、気分が良い人とのことはやたらと強調されるのだけど、器量よしの性格悪しみたいな説なのだろうか。確かに器量の良さってだいたい思い通りにできる武器で、我儘になるという傾向はありそうだけど、個別に見ないと分からない話。村上さんの小説で結構出てくるスポイルされた人ということなのか。

 

気分が良いように見えても自分を尊重してもらってなかったらいつか破綻するだろう。逆もしかり。

 

ただ、なんというか心配されているのはそういうことでもないような気もして。ぶっちゃけパートナーがいた方が死ににくいという意味の安定を求められているのではないかという印象。毎日楽しくて死んでいる暇はないから大丈夫だと言ったところで証拠がないもんな。かといって証拠の為にパートナーを選ぶのもなんだか違うような。

 

お、からくりサーカスが終わって最後の2曲に間に合った。この方noteを読み流した記憶で高音を追及していると書いていたような気がするけど、確かに高音を唄っている時の方が気持ちよさそうだ。あと、水を飲む所作とか含め、「見られている」のを意識しているのだろうな。あ、終わった。お疲れ様でした。

 

どうでも良いけど、ここいくつかの日記で「なのだが」を使ってみようとしてみたのだが、全然しっくりこなかった。ここでは「なのだけど」でええな。何が違うかって、書きやすいのが違う。

 

本日は雇用の切り替えの書類のために通知カードを探すため、資料の山を掘り返していた。捨ててしまえばいいし、特に未練もないのだけどなんとなくただ残っている汚部屋。結局資料の山ではないところで見つかったのだけど、ひっくり返してみるとなかなか面白かった。論文試験のために早く書く練習をしたA4用紙とか、直近のもと恋人さんからのメッセージカードとか、いつかストーカー規制法ギリギリのやり方をしたかなり長文の手紙の断片とか。

 

良く送ったなと我ながら思う。まず、本当に届くか定かではないから、「これを読んでいる人が宛名以外の人だとしたらすぐ破棄していただけるとありがたいです。何か対処しなきゃいけない手紙ではないので。煩わせて申し訳ありませんでした。」という冒頭文。僕の住所にこんな冒頭の手紙がやってきたら、隅々まで読んでなんなら返事まで書きそうだけど、一般的にはとても不信感を煽る文章に違いない。

 

あと、もはや語彙が共通項ではないから僕の語彙でしか書けず、ここのような独り言が続く。ほんと文体がほとんど一緒っぽかった。

 

実際は当人に届いて再会することにはなり、この前貼った日記の画像のデートもその1つ。グーグル先生が、5年前のクリスマスに何をしていたか見てみましょうと言ってきて、そんな報告要らないわとなった。画像は改めて削除した。残っているのは全然体験とは関係ないすっぴん眼鏡画像。

 

 

そうこうして、手紙の文体と今の文体の相似を見たとき、やっぱり僕はもともとこんな人物でしかなったなと思った次第。僕なりに人を大事にしていたときに当人に浮気をされてなんとなく人格がやや壊れたという観測だったけど、そうではなくて、依存関係では構築できない人だった。手紙の受け手も再開した時、何が書かれているのか全然読めなかったって言っていたから、GREEで読んでいた人も自分に引き付けて読んでいてほとんど分からなかっただろう。好きな人もそうかもしれないけど、どこか違うような気もする。

 

語彙が分からないというより、何を意図して書かれているのかが分からないのだと思われる。自分が知っている通念と違う意図って許容できるかは当人の器だし。着信があった友人はいつか、小説を書くような人は自分の文章を広く見られたい顕示欲から来ているに違いないって言っていたけど、一般的傾向としては正しいとしても、そうではない人も居る訳で。そこしかなかったとか、もっと仕事的に書くとか。

 

さておき。

 

好きな人が、「わたしはいつでも最善の選択をしているのにいつも選ばなかった過去に未練がある」と書いていて、いつもよりスキが付いていた。共感する人が多いのだろうし、分からなくもないけど、個人的には人にそもそも最善の選択ができる訳がないとしている。

 

別に文句とかではないのは分かっていただけていると思い込んでいるが、自分から外れた見解を拒絶する人だったらそもそも僕を見ていないか(不安感)。否定している訳ではないです。

 

最善の選択を「している」という書きぶりからすると、現在進行形の選択だと思うのだけど、選択をしているときに自分が選択をしていると意識できる選択肢って生活上どれくらいあるのだろう。買いたいものがいくつか浮かんでいてどれを選ぶかとか、人から何か提案されてそれを許容するかどうか判断できるまでに猶予があるくらいしか想定できない。

 

過去の選択が最善だったとするのであれば対象はもっと拡がるし、未練がセットになるのも分かる。人は未来に期待するし過去を貶めるし、過去の時点の情報量は今に劣るから、今の時点から見れば過去の選択は正しくはならない。

 

というのが経済学的な人の選択の限界。

 

でも、このフレーズは後付けの未練を言っているのとも違う気がする。だから、選択の対象が何を想定しているのだろうというのが分からないとこのフレーズに対しては何も判断ができない。対モノ(現象)なのか対人なのかでも随分違う。

 

対人であれば選択する権利は双方にあるから、最良の選択が限度なのではだし。なんなら僕を在らせている選択は全然最善ではないと思う(我ながら)。

 

もう1つ文脈としては、選択肢が絞られること自体が不自由だという観念。何かを選択したということは他は選べないからその分自分が狭くなる。他人の芝生は青いなら確かに未練は募る。この観念と争い論ってやや繋がっているような。

 

好きな人の未練がどの文脈にあるのかは定かではないけど、僕としては存在していてくれたら嬉しいだけだから、ここを慰撫したいとかはない。

 

僕における選択論って、選んだからといってそれが正しいとするではないから、選択する意志はほとんど問題としていない。対人論で言っても僕が何かを選ぶというより相手との兼ね合いで自然とそうなるものだろうし、現象論で言っても、選ぶというよりは選ばれる感じ。

 

だって、読める本しか読めない。

 

最善の選択ができているという感覚は自分が確立していてうらやましいことだけど、それが未練というブレーキになるなら一長一短よな。

 

おしまい。

 

では、おやすみなさい。

正しい争い

 

対話とはなんぞやと思ってしまうな。ここにおいては。

ほんと、好きですわ。

 

スーパーにはおせち料理の食材が並び出した。関西に来て初めて知って自分で煮付けにしてみた慈姑もある。調理してみたのは形が変だったから。味はさっぱりした里いもみたいな感じ。今年も作るのかは未定。

 

新刊枠のファンタタジー。ファンタジーと言うより空想の民族史みたいだが、魂と体の関係で、体という枠があるからこそ魂も在るのだというフレーズがあった。僕が思考を遊ばせているのは体の枠に付属した思想みたいなものが割と確立しているからだろうなとふと思う。自分の思想とか行動規範が幻想でしかないと知っても、あぁそうですかとしかないならない。

 

別に体の枠にも不自由はないというところから、今の職場環境で一番の利点は、生活に歩く時間が組み込まれていることだろうなとなった。たかだか40分弱だが、自分がどう歩いているかが点検できる。昔もっと体を動かす仕事をしていた時の自分の腕の筋肉とか、今より多かったけどとても硬かった。今の足の筋肉はとても柔らかい。たぶん、動かしているのではなくて動いているからだ。無理はさせていない。

 

あと、発話のみを用いた疎通が組み込まれているのも良き。仕事でなければしない。詳細は省略。

 

体の動きは頭の動きにも当然連動していて、体の動きの滑らかさは思考の柔軟性に繋がる。移動の概念の中核は「自分の体が動かせる範囲」である。刑法の監禁罪の法益(犯罪として刑罰を科すことで守られる人の利益)とは「移動の自由」なのだが、判例最高裁判所の判決)で、移動には移動する能力と意志が前提とされるのが一般としつつ、1歳ちょいの幼児の物理的・自然的な移動も含まれるとしたのとなんだか似ている。

 

ところで、僕が好きな人のことを寂しげに捉えてしまうのは何故だろうと考えていた。そもそも良いとか悪いとかの評価のことではないとしても、やや失礼ではある。おそらく仕事のやり方としての「観測者・記録者」という視点が舞台の外から観ているように見えるためにそう捉えてしまうのであって、「生活者」としての当人はきっと舞台に上がっているし主人公であるに違いない。「生活者」の方は僕が見ることはできないものだろうけどそれはそれで。寂しくなければ良いなと思うのは祈りの範疇。僕の抱擁に効用があると思っているのかと自戒したが、いやほんとに効用があると認識しているならもっと動くだろうし、ここの評価とは無関係であくまでただ嬉しいのついでかとなった。

 

 

感想文的な文章。

 

まず「暴力」の範囲。刑法上の暴力概念には広い意味から狭い意味までグラデーションがあることをちょっと思い出した。一般語用だと、「人に対する有形力の行使」になるのか。これが暴行罪における「暴行」。間接的なもの(近くの物を破壊して威勢を示すとか)が公務執行妨害罪における「暴行」でもっと広くなる。一番狭いのが、反抗を抑圧する程度という言葉が付加されたもので、強盗罪・強制性交等罪における「暴行」。暴行によらない障害という概念もある。障害は、人の生理機能を侵害することで、騒音とか無言電話でのPTSDは犯罪とされている例がある。言葉だけでも程度によってはありうるかもしれない。自殺するしかないように追い込んだ言葉が殺人罪の実行行為(犯罪の結果を発生させる現実的な危険を有する行為)になりうる(他の状況も諸々踏まえ)という例もあるから、言葉の行為性というは社会的にも認証されているよな。民法だともっと言葉は現実的な意味を持っている。

 

あらゆる人が言葉を扱って表現できるようになっている時代としても言葉の現実性については希薄になっていそうではある。

 

あと、あの日の話。モニュメントって語義としては分かるが実感として全くしっくりこない。同じ感覚なのは党派性。記念碑としてのあの日って、過去を祀ることだとするととても宗教的な気がする。セーブポイントならとても分かる。要は、脳が記録していてその地点に立ち返ることができる自分の場。

 

どうでも良いけど、「こころ」は全部通して読んだことがあったはずなのに、主人公の父親の死の場面はすっかり抜け落ちていた。これってたぶん父親の死にまつわる観念については意識に上らないようにするという逃避的な作用なのだろうな。悲しくなることが良くないことだとしている模様。なんか、親類が父親に対してあの人は良い人だったって飲みながら肴にしているのがなんとも言えない記録。当時は自分が知らない父親の面を知っているのだろうなと素直に思っていたけど、今は違う気がする。一種の儀式でしかなかったのだろうなと。演劇感。それぞれ悲しくは思っていたのかもしれない。ただ、その悲しみは言語化されていない領域にあるはずで。

 

あと、「初恋を意識した日」というところからの連想で、恋人にまつわる色々が出てきたしまった。高校3年生の時の恋人さんと空き教室に2人きりで、窓から外を眺めている。距離がやたら近くて、相手が自分に触られたいというメッセージを送っているのは分かっていても、実際の体は動かない。おそらくここでいちゃいちゃできていればもう少し長続きしただろうなというとても酸っぱいあの日。分かっていても動かないというのは史実上いくらでもあること。

 

日単位のモニュメントって、いくらでもあるな。「初めて雷が間近に落ちた日」、「演劇初体験の日」、「好きな人を初めて眺めて、竹林に穴がある作品のパネルが良く見ると傷付いてくたびれていた日」、「元々の恋人さんとの最後のデートの日」、「おじいちゃんの死体と添い寝しようとした日」、「初めて会話した日」、「基礎ゼミの人達と花火を見に行った日」。

 

ただ、イラスト化(絵は下手なので無理です)とかで他人に伝達したい日があるのかというと、そんな日はないなと思う寂しい人物。伝播なら問題はないが。伝達と伝播の違いは、伝達の方は意志を持ってエピソードを伝えることで、伝播は別に意志はない独り言。

 

最後。

 

「争いがない世界を想像できない。なくても良いものでないと思う。」という趣旨のフレーズを見て考えたのは、僕は育ちが悪いから争いの効用がインストールされていないのだろうなという発想。好きな人は確かに育ちが良さそうな感じはある。

 

ちょうどホモサピエンス全史でそういうことが書かれていた。人間はサッカーをできるようには創られていないけど、サッカーのルールを学習することでサッカーができる。人間以外の動物は争いを自然的にする。子犬は喧嘩で遊ぶ。みたいな下り。

 

DNAにインストールされた争いの効用って、力加減を覚えるとか親しみの証拠とかそういうものなのだろうなと思った。競争原理が自然なことかとなると、うーむ。

 

僕が見てきた争いって、それが終わったら仲直りするとかではなく全力で相手を排除をするというもので、母親は姉に対して産まなきゃ良かったって言うし、姉は母親と絶縁するし、何も実らない争いばかりだったから、争いは忌避するものでしかなかった。今となると、ルールに則って勝ち負けを決めて後腐れなしというのがスポーツなのだから、もっと部活で勝っておけば良かった。

 

たぶん、争いがちゃんとインストールされている人はルールに則った後腐れがない戦争が前提になっている。僕は個人的な関係でもほとんど謝るかスルーしていた。だから、貴方が思うことを主張してくれって言われる訳だけど、別にそんなものはないとする。学習が足りてない。この辺りが自己評価として相対的に無価値と連動しているのだろうけど。

 

こういうじゃれ合い的な争いは別にして、争いが起こる前提って、希少性か正当性を奪うことだと思う。希少性は資源で、正当性は教義。古来の戦争は、土地とかの領土を奪うことで自国民を豊かにするだったけど、近代は、自国の思想の正しさのための糧にする。十字軍とか。十字軍は中世だけど。

 

僕は育ちが悪いから、強い言葉とかは使わないようにしている。

育ちの悪さは最初の社会だからある意味どうしようもない前提ではある。人のことが全く分かった気がしないのもそうなだろうな、きっと。

 

ではおやすみなさい。

 

没頭

 

 

 

年末だから浮足立っているのか、連続投稿。

しばらくまた連続になるかもしれない(未定)。

 

他人の中身を想うのはなんというかシュレディンガーの猫的だ。○○であると考えたとき、それは○○でないと同時に存在している。かといって、現に○○が現われたとしてもその人の性質として固定化されるのかというとそうでもない。

 

そもそも、考えている対象としてのその人は過去の情報であり、いまのその人を考えるのでれば、それは控え目に表現して想像、あからさまに言うと推測の範疇でしかない。

 

人の中身は分解すれば分かるものだという観念は科学主義というか機械論とか運命論みたいな感じ。ある刺激があれば同じ反応を示すという前提がなければ同情で同調できるという観念は生まれない。想像上の秩序=共通神話なのかもしれないが。

 

演劇における「役」にも繋がっているような。

 

詳細は後で。

 

さておき。

(某ライブをBGMに、楽しそうで善きだな)

 

本日目が覚めると、体がオロナミンCとアイスを渇望している。珍しや。オロナミンCに対しての出自は分かる。文字を見て記憶が想起された。小さい頃のご褒美だった。お祖父ちゃんち行ったときとか、マッサージをしていた近所のおばあちゃん家に行ったときによくもらっていた。ヤクルトもこの範疇。アイスはほんと何か月、年単位かというくらいだったから奮発してハーゲンダッツにした。ほんと美味しかった。美味しく感じるものは体が欲しているのだという説にはなかなか信ぴょう性がある。美味しく感じる文章には、とかあらゆる方向で適用できそうだけど。

 

日中は相変わらず、好きな人の変さを想いながら法律書を読んでいた。昼間に読書時間で読んでいる本を読まないのは没頭し過ぎることをセーブするため。そういえばかの文章はいつ書こうかな。今年中には書いておきたいところ。

 

法律はなんとなく読み方が変わってきている。裁判でどう主張して証拠を提出しなきゃならないかというある意味専門的な分野と、平時のなんにも問題がないときにどういう風に「想像上の秩序」が形成されているか。債権譲渡とクレジットカード決済とか。あんまり細かいことは書かない。

 

あと、言葉の記号としての意味をもっとちゃんとしようとしている。これは言葉に自分を丸投げしない(=期待しない)という素朴な現実に繋がる。

 

ところで想像上の秩序は一般的には現実に含まれるものなのだけど、これを想像上のものだと一般人に知られることは歴史上のタブーらしい。憲法の文面とか割にどこ国も神話ちっくなのだけど、それには気付かれてはいけないみたいな。アメリカ独立宣言って、社会科で習ったと思うけど、造物主は人を平等に造ったのだというフレーズが出てくるし。

 

平等とか人権とかも、想像上のものであるとなったら現代人でもびっくりしてしまう人は多いかもしれない。この概念装置の主眼は、国家に秩序維持のための暴力を集中させるけど、国民の自由は最大限保障しなければならないという国家機関の抑制にあって、個々人がそういう概念を信じることではないのだけど、多数派が信じないと想像上の秩序は保たれないのも分かる。まさに現在進行形の時代観。皆がいつ飽きるのか。

 

ここでいう、信じるは現に存在することを前提とするではなく、現実的な行動指針とできるという意味。理由付けは後付けでもなんでも構わない。

 

で、面白いのは、このホモサピエンス全史とフロムさんがまぁまぁ同じことを言っていること。想像上の秩序は物にかかわるもので、人の現実的な欲求を規定する。

 

例示で挙げられていたのが旅行への欲求だった。移動して生活圏ではない体験をすることで潜在的な自分が開花されるのだという信仰。これはロマン主義から来ているとのことで、ロマン主義って何ぞやと調べたら、割と昔の文芸活動だった。人は自由だというやつ(雑い)

 

新たな体感ができる自由の前提って人は生活圏という場に固定されているということで、この前提自体が幻想ではないか。この前提がある限りどこに行っても目は開かないよなぁって、梶井さんの檸檬の冒頭を想い出した。ちょうど時代だったからロマン主義への反発だったのかと想像。もちろん新たな経験は大事で貴重だけど、目を開く準備とか意志とかがなければ新鮮さだけを無限に欲求することになるだろうなというだけ。

 

あぁ、だから移動とか人と会うことが制限されるとしんどいのか。僕が好きな人と会ってみたい衝動は別に自分の欠けているところを埋めるためのものではないなから、待つとか予約するでもない。

 

「こころ」を読みながらnoteも読むというとても贅沢なことをした。夏目さんは時代の規範に抵抗した価値観がもともとあったのかなという感じ。主人公の兄が先生を見下すところとか。何かできるのにしないのは怠惰だ、みたいな、仕事とは社会に貢献するためにあるみたいなものさしが当たり前だったところに疑問を持っていた。

 

では、今の時代のものさしとは。現代は思想の自由が保障されているから、よほどでないと思想の主張に関しては制限されない。だから逆にもともとの規定値みたいなのが剥き出しになっているのかもしれない。

 

読んだnoteは没頭の話だった。生活に没頭したい、没頭できたら良い、でもできない。没頭の体感がある人だからそう思ったのだろうけど、そう見える人は別に没頭している訳ではなく、それしかないのではと思う訳で。他の選択肢が浮かばないことを没頭と評すのであれば確かにそうだけど。

 

これに加えて、ちょうど今日、現代日本の哲学者さんのnoteを読んだ。どれだけ読んでいるんだって、可処分時間のほとんどは読むことに置いているので。

 

曰く、人は理想像がないと生きられない、という冒頭。

 

理想像なくても生きてますがと反発したのはさておき、文章をかみ砕くと、人格は倣う対象があって、公共空間と私的空間における人格として、私的空間まで綺麗にしようとするのは人を寂しくさせるみたいな話。

 

雑いのは全く共感も読解もできなかったからだけど、たぶんアイデンティティをペルソナとしているからだろうなというということ。人の外用の仮面は物だから、交換可能で経済的な取引対象になる。多数性は悪だけど、悪がないと人は成り立たないという言説も、対他人でなく対自分なら分かる。他人が都合良くないの前に、自分のカオスに向き合いましょうという意味なら。

 

素朴な自分としては、行動指針とか思考指針のなんらかの価値体系なんて自分がよりよく生きるための道具でしかないから宗派なんていつでも変えて良いのではというくらいにしか捉えていない。松葉杖があろうがなかろうが、自分であることからは離れられないし。まずここから再開しないと自分のことも他人のことも分からないのではと思う次第。

 

 

 

どうでも良い話だけど、僕はほとんど誰にも見られなくなったいまのほうが、世界に参加している感がある。関係していると、あくまで当人の中での役者なのだろうなという感覚があった。親しいが規定し規定されることなら駄目なんよね。僕は相手のことを規定しないから不公平になる。この公平も想像上の秩序だけど、巻き込まれるのはごめん被る。

 

この楽しさは、関係している人がしんどいとか疲れたとか言っていたら無理だし、ペルソナとしての僕を僕とされてもしんどい。

 

言葉はそれほど重いんだよな。

 

 

では、おやすみなさい。