あどべんちゃー

 

 

昨日書ききれなかったことについて。一応書きながら何か方向性を考えているのだが、どちらに向かうかは指の勘任せというか、放任しがち。最近、読み返すと自分の文章が面白いと感じてきたから、たぶん方向としてはこちらでよろしいはず。劇評とかもそうだし、もともとか。だとすると、面白いと感じた要因は別にあるのか。

 

1つ、緑地公園に入ったところ辺りで、立派な蜘蛛の巣を見つけたのだった。「これはこれは、立派な作品で。作者様は、、見当たらない」というアフレコが入る。小さい頃、Y字の枝で蜘蛛の巣を見つけては、巻き取る遊びをしていた。あれって何の意味があったのだろう。子供は無意味なことをすると言うが、経済的ではないとか効率的ではないとか常識的ではないというだけで、意味はあると思う。いや、それが一般的には無意味だというのかもしれないが、オトナは無意味を無意識領域に持って行っているだけだと思う。だから気付かない。

 

おそらくだが、自作の虫取り網を作りたかったのだと思う。蜘蛛の巣=虫がかかるもの→巻き取れば虫取り網になる、みたいな思考。効果の程は、それほどなかった。蜘蛛の通り道になる粘着質でない糸も巻き取っているし、何より金魚すくいの網より小さい。ただ、自作というのをしてみたかったのだろうな。

 

そうして、もう1つ。家に着くギリギリのところでようやくぽつぽつ雨が降ってきたのだが、対処をするまでもない勢い。これに対して、ふと「優しいな」という言葉が浮かんだのだった。優しさの定義について少し交信(議論ではない)したのだが、相手は人と人の関係を前提とした優しさとは何ぞやを考えていたように思う。自分が誰かにとって、あるいは誰かが自分にとって、もしくは誰かが誰かにとって。

 

僕がこの言葉で感じるのは、関係は関係なのだが、別に対人でなくても良い。雨はだいたい優しいし、色合いが優しい花とか、優しい味とか。人に対して遣うのであれば、僕にとってどうかとは無関係だろうな。僕にとって優しい人が誰かにとって優しくないということは当然あるし、この場合、その人を優しい人とは評せない。対当人だけには言うだろうが。

 

「いきの構造」曰く、優しさはいたわりだということだし、あるバンドマンは「人と人との間にあるもの」と言っていたが、僕としては、行為というより現象としての優しさでここには、他人の為の遠慮とか、放任とか、文字で何か定義できるものでもない感じ。

 

さておき。

 

前置き長くなったな。本日は冒険譚。

 

 

この休日、ざるうどん麺とか刺身とか冷たいものばかり食べていたため常性を解除するように温かい朝食にした。味噌汁は偉大。だいたいの食材が入るしすぐ作れる。本日はズッキーニの切れ端とにんじんとしめじ。1人分を作るコツは、水の量をこれで大丈夫かと思うくらい少なくすること。これでだいたい余らず器に収まる。あとは目玉焼きと小鉢に塩昆布と梅干と、らっきょうの甘酢漬け(祖母印)を載せて、なんとなく料亭風に。

 

ふと、僕が自炊できているのは、努力とか施行ではなく、自分で自分の料理に駄目出ししないことだろうなと思った。今やほんとに美味しいのだが、美味しくなる前のレシピ見ながらやっているときでも放任していた。自分がかけた時間とは分けて、ただのごちそうさま。次どうしたら改善されるかとか、自我で駄目出しするまでもなく分かっているから別に言語化するまでもない。

 

今食べているのは、鶏肩肉と青梗菜と人参の酢鶏風。厳密なレシピではなく味だけ寄るようにした。副菜はもやしナムルだが、参考にしたレシピにはニンニクが入っていたが、ニンニクチューブを用意していないため生姜チューブで代用。たぶん生姜にも防腐作用あるだろうと当たりをつけて。このレシピの表記に塩1つまみ(親指と人差し指と中指でつまめる量)とあったのだが、僕の太い指でそんなことしたら塩辛くてしょうがないよな。レシピ本は感覚を言葉にしただけの語用が多いから厳密に作ろうとすると大変だと思う。スイーツは厳密に書かれていると想像(バンビーノから)。

 

 

そうして、無理やり昼寝したり、ドラクエ11の実況動画みたりしながら本を読みつつ時を過ごして髪を切りに行く。このシーンは取り立てて書くことはないのだが、昨日緑地公園に行ったら、無茶苦茶人が多かったと話したら、インドアでも楽しい、アウトドアでも楽しいにならないといけないですよねって言っていた。そうだよなぁ、消去法としての楽しさのために公園で歩いたりピクニックしたりしても、不自由な楽しさでしかない。

 

と、空は相変わらず曇っていて、池に落ちる雨が見られるかもと衝動が起こり、アヒル公園に向かうことにした、アヒル公園とは。最寄駅から1駅離れたところにある、アヒルと書かれた犬小屋大の小屋が置いてある小島が浮かんでいる池を中心とした公園である。なんとなく「言の葉の庭」感があって好き。たしかあの作品で、「雨を待っている」という台詞があったような。ただ、これは雨が降ったら雪乃先生に会えるという純粋な雨乞いではないが。

 

スーパーでハンバーグ弁当とお茶を買って向かう。着いたら、やはり、ヒトだらけ。消去法的な目的で歩いている人がほとんどなのだろうなという空気感。ただ歩くでも、歩くために歩いている人ではなく、健康のためにウォーキングしているとかそんなのだろうし。釣り人も居た。ここは禁止されていないみたいだから問題はないが。

 

僕としては、このあひる公園は嵐山の竹林に穴が開いたパネル(そういう作品を衝動的に見に行った)と繋がっているのだが、この連想はきっと僕だけのもの。穴とはなんなのだろうな。空虚というよりは黒点だから、塗りつぶしみたいな。そういえば青い小説の最終頁にも穴があった気がする。作者さんに対する好意は変な方向に向かっており、今や同居人さんへの興味もある。文章書いているのであれば読んでみたい。

 

僕は現実に興味がある人物が出てくると、この人どんな文章書くのだろうというのが気になる。この衝動が満たされたことはないのだが、文章的インターネット世界だと手っ取り早い。独りよがりとこれは誰かに読まれるものなのだという意識がブレンドされている文章が美味しい。なんなら生身より文章の方がその人に近いすらある。

 

僕のはどうなのだろうな。メタが過ぎるから他人がこういう文章書いていてもあんまり美味しくはないのかも。

 

現在のあひる小屋がある小島は、ラピュタみたいになっていた。木が生い茂りアヒル小屋も廃墟で、このまま飛び上がって見えなくなった方がこの島のためなのかもとか。当のアヒルさんも見つけられなかった。もうどこかに移動したのかもしれない。小島が整備されていないのもそういうことなのだろう。

 

当初の目論見では、アヒル公園の現在の画像を撮って日記に載せて、すっきりして電車に乗って一駅戻り、家に帰るということだった。実際行ってみると人が多いわ、雨も降ってくれないわで消化不良だから、線路の反対側から迷子になりながら帰ることにした。

 

自発的迷子。

 

移動速度と情報量。歩きが一番良いが、電車の車窓も捨てがたい。車(自転車含む)は自分が運転していたら景色どころでないから、移動のための移動。情報も少ない。

 

アザミの花が咲いていて興奮できるのは、歩きと電車ならできるが、他ではない。色もとげも毒々しいが、花は触り心地良いのだよな。本日は実際に触ってないが、感触のアーカイブがある。

タンポポの綿毛の完璧な球体を眺めつつ公園を通り過ぎたら、そこには球場があり草野球の試合をしていた。野球的な体の使い方も知っているし、声出しの良く分からなさも知っている。通り過ぎていたら、ピンポンパンポーンと音が鳴り、「交代時間です」というアナウンス。その先には、テニスコート。僕もやりたい。テニスってあんまり筋肉使わないスポーツ(自己定義)だから、今でもできると思う。ボレーもストロークも筋力よりタイミングの方が大事。高校3年間で全然筋力つかなかった。

 

そうして、テニスコートも過ぎたら、今度は電車の車庫があった。秘密基地みたいでワクワクしながら、景色は巡る。アジサイを植えている家多いのだなとか、地元では「スイジン」と呼ばれていたこの野草、公用語としてはなんと呼ぶのだろうとか。

 

この辺りで悪癖が出てきて、だいたいの位置は分かっているから、なるべくワクワクした道を選べということになった。昨日以上に歩くことになったが、ほんと楽しかった。

 

通学路に迷い込み、道路から見下ろすと畑の横に道があって人が1人通っている。うわ、めめっちゃそこ歩きたいと思っていたら、この道は子供だけで通らないという注釈文がある階段があった。僕はもう大人なので問題ない。階段ではなく少し下ると自転車用の坂があったから、そこから降りて、営みとしての自然(畑)と、自然としての自然の間を1人で通る。この空気! と感じ、マスクを外して深呼吸した。充電充電。

 

田植えが終わっている田んぼとか、まだな田んぼとかを眺めつつ、ちゃんと見れば地元と同じような感じだなと思った。

 

そろそろ見知った道に入るかなと楽観していたら、全くそんなことはない。それでもワクワクする道を選ぶ。鳥居の下に道路がある、採用。みたいに。そうこうしていると、物理的なステータス以上が起こり、ただの歩行による汗が冷や汗に変わってきた。腹痛(便意)。

 

このお腹の痛さは、足のしびれと同じくらい慣れない。この時点では住宅街に迷い込んでおり、笑い話になるか、誰にも言えない話になるかは分からない。ただ、小学生時の帰り道に家に着くまで絶対にトイレはないという絶望感と比べたら、歩いていればトイレがあるという可能性がある希望がある。今考えると選択としては山の中でするというのもあったのだが。結局スーパーを見つけて事なきを得る。すんなり入れたわけではないのだが、この話は省略。

 

そうして、すっきりしたところで気になってきたのが位置情報。

 

文明の利器を使うと、やはり方向性はずれてないが、このまま行くと昨日の公園に辿りついてしまう。なので、今度は方向を合わせつつ、なるべく既知の道に辿り着かないようにするという設定。高級住宅街に迷い込み、通り抜けられるのかと不安になりながら、エコバック的なものを携えた老夫婦を先導者にして犬の散歩をしている女性に階段を譲ったら、上がってきた犬が僕をガン見して譲らないみたいなシーンもありつつ、霊園の横を通った。

 

供養されている霊は、悪霊にはならないみたいな話をどこかで読んだが、むちゃくちゃ墓石の数が多かった。あんまり変な感じはないが、高級住宅街とか、学校に隣接しているのはちょっと変な感じ。都市計画の不具合だろうか。

 

僕は貧乏人だが、同じカタチで隣接している一軒家を見たとき、この人達、もうこの家を捨てられないのだろうなと思ってしまう。母親は自分で買った家捨てたが、何かを持つというのは、不自由と自由の狭間だよな。

 

そうして、公園を避けるように移動していたら、昨日の日記で歩いていたルートで渡った橋の下の道に着いた。この道どこの道なのだろうと昨日の自分が思っていたのだが、本日は見上げる視点になったとき、めっちゃ楽しく人生過ごしているなと思った。

 

ちひろさん」ではサイコロ振ってその分離れた駅を散策する遊びをやっていたのだが、1駅でもこれくらいの冒険はできる。ただ、普通の人の徒歩圏内ではないと思う。

 

歩くのが好きなのは、体と自分が馴染むところにあるのかもな。中高のマラソンは他の人は嫌がっていたが、個人的にはかなり好きだった。ランナーズハイの高揚感というより、精神と体の一致みたいなところ。

 

と、既知の道に帰れた頃にはウォーキングハイみたいな気分になっていて、汗を引かせるために入った馴染みの本屋さんで、ちょうどいい本が採取された。

 

「考える身体」。

 

芸術としての体の動きの話なのだが。人は、世界を体で捉えているというのは分かる。感動は、心の前に体が震える。どれだけ気温が高かろうが鳥肌が立つ。肉体が衰えるという話は、まぁ時間性ではありき。顔はどんどん老けるだろうし。

 

ただ、自分の内部が体とどれだけ連動しているのか。自分の体に駄目出ししているようでは理想にはなれない。いやここは言い過ぎか。僕はどんどん痩せているというか、ベルトがないとウエストが収まらないし、そろそろ勝手に腹筋が割れるのではという感じはある。まぁ仕事中に声を出す時に腹筋に力を常に入れているが。

 

体と自分の一致がないって、なんなのだろうな。

怠惰とかそういう話ではなく、その自分の捉え方で他人を捕捉できるのかという感じ。

何か別の要因で不一致になったというなら分かる。

 

ここで収めるとただの細身好みで終わりそうなのだが、肉が余るってだいたいが食べ過ぎであって、食べ過ぎる自分を甘やかしているだけよなと。これはフォルム云々より、当人の中で身動きが取れなくなることが厄介。

 

僕が太らないのは、経口摂取に対してそれほど満足を得てないかもしれない。

美味しいものは美味しいが、無意識で食べることはしていない。

 

あと1つ。

 

人が装飾をして自分を確認したいのは、自分が他人であることを知ったからという話がリベラルアーツであった。そう、自己観はあくまで自分が集積した客観からの自分でしかないんよなと。

 

だから、言語された当人の自己評価とか知ったことではないし、言葉の中で別のところを食べているみたい。

 

僕にとっては言葉も体の一部である。

要は、動き。

 

はい、おしまい。(どんどん文字数増えるな)

 

おやすみなさい。