音合わせ

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 誰も居ない。なんとなく何枚か撮ったが1枚だけ。本日最高のパワースポット。車もほとんど通らず人も居ない。ただ、ちょっとしたしぶきとか揺らぎで、何かがたくさんいるのだろうなと分かる。僕の時系列で、「ちゃんと1人でいった場所」としてアーカイブが追加される。

 

本日のルートは僕しか連れていけない。いや、誰かと行くならレンタカーで行くだろうしもっと計画を立てて行くだろうが、僕にとってお出かけはそういうのでもない気がする。何か目的を設定し、そこに向かって計画を立て行動するって日常に属する仕事とかであれば良いが、非日常に日常的所作を持ち込むと、日常と地続きになってしまわないか。

 

自分が調律された1日。

 

前置き終わり。

 

7時過ぎに目を覚ましてうどんと梅干ごはんを食べる。体力が十分でなかったため自発的2度寝。温泉に入ることも考え下着と靴下の替えを準備。あとはWi-Fiと充電器と財布と折りたたみ傘と財布と赤青本くらい。イヤホンは要らない。10時前に出発。

 

新大阪には久々に行ったが、このご時世により雰囲気が全然違う。リブロで新幹線で読む用の方を買い、改札に入ると何処もビールは置いてなく、ノンアルビールと酎ハイが置いてある。なんかよく分からんが失笑。ノンアルコールの飲料なら談笑して良いのか。色々アレだし、それを許容しているのもなんだか。まぁ別に新幹線でビールを飲まなきゃイライラするような質ではないからどうでも良いが。別に外のコンビニで買って持ち込むことまで制限できないのでは、と抜け道を考えた。

 

ともあれ、人が多いのが苦手だった理由がなんとなく肌感で分かった。人が増えると内部の時間の違いが意識とか所作に顕われてそれらに同期しようとして混戦する。中の時間がどう流れているかというは別に高次元でも魂でもなく、あと10分の待ち時間をどう捉えるのかという意味。例えば10でも待てないとかだと、無意識が最初にそういう風に学習しているから、表にはめちゃくちゃ長く感じないといけないという義務なり教育なりが行われる。これがイライラとして表象化されているのだと思う。

 

この時間の捉え方って、自分の時間をきっちり使っているようで、実は意識されて初めて自分がきちんと時間を使ってないと分かるからイライラするのではと思った。

 

別にそんなあからさまなイライラの人は見かけていないが、どうあっても同じ時間で生きることはできないよなという話。私的な共同生活したことがある人はお分かりかと思うが、この内部時間って言わずもがな外界の捉え方と直結していて、無意識に外に顕われる。

 

と、小説を読みながら姫路に着いたとき、何かのトラブルで新幹線が止まる。そのうち動くかなと思いながら何気なく小説を読む20分。ほんとならもう目的地に着くころ、これは無理そうだなって在来線に切り替えて、結局2時間半くらい思っていたより遅く着いた。特急券の払い戻しもなかったから、時間に加えてお金も余計にかかる。

 

僕はここで在来線か、これはこれで景色が遅くなってよく見えて良きな。お金はどうでも良いとなったのだが、仮にイライラする誰かと一緒に居たら、そのイライラに調律しないといけない。まぁ不機嫌なその人も含めて好きなのだろうが、だったらもっとなるべくリスクを排除する計画を立てるだろう。レンタカーとか。岡山の道くらいだったらペーパードライバーでもなんとかなるが、高速道路は手汗かく。自動車の運転で何が苦手って運転技術より空気を読むこと。ある程度我を通した方が楽に運転できるのだろうなとか。

 

そうこう在来線に切り替えることにして、小説を読んだり景色を見たりしていたら、乗り換えで1駅通り過ぎてしまう。厳密には通り過ぎても着くのだが、最短から30分程遅れる。なので、一回降りて引き返すことにした。とてもデジャブな駅。JR西相生駅はJR内子駅と雰囲気がそっくり。小雨も降ってきて、もっと本格的に降ってきたら、折りたたみ傘とは別に大き目の傘を買ってゆっくり湿原を見ようとかうきうきしている。これも僕でしか楽しめない感覚。

 

移動時間が長くなった弊害は、新幹線の往復の移動時間と景色を見越して読み切るだろうなと買った小説が、往路だけで読み終わってしまったこと。たしか大学か高校辺りに読んだ読み返しで、山本文緒さんの「ブルーもしくはブルー」。友人が村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を話題に出したとき、この小説が発想され、「それってドッペルゲンガーの話やろ」と言ってしまい、きょとんとされたことがある。

 

世界線のことを考えていたから顔を出してくれたのだろう。伴侶にどちらの男性を選ぶのかで迷ったことにより、本体が選ばなかった世界線が同じ空間に存在するという話。僕もそんなことを考えたことがあったし書いたこともある気がするが、今の僕は誰を選ぶとか関係なく僕は僕でしかないとなっている。要は、何処で生きても変わらない。

 

で、岡山駅に着いたのだが庭園とか地ビールどころではなく、桃太郎線にすぐ乗り換えた。すぐと言っても10分ほどあったため、おにぎりとメンチカツが挟まれたパン(ほんとはハンバーガーの口だった)を押し込んでカロリーを補給する。

 

やっと15時過ぎに目的の駅に着いた。降りる人が僕しか居ない。ザ・解放感。一応界隈は散策スポットらしく、言葉足らずの看板に従って歩く。盆地感が大洲駅周辺とデジャブ。でも、植物が道路の両側を囲んで歩道の白線すらないという道はなかなかない。こういう人の手が入っていない道ほんと好き。普通に生活道路らしく横から車がビュンビュン通り過ぎるから危ない。

 

湿原に近づくにつれ車が減ってきたのだが、観光客風の人は1人も居ない。談笑しながら歩いてくる地元のマダム2人がおり、なんだか挨拶されそうだなと返す準備をしていたら思った通りになり、「こんにちは」の交換をした。この方々とは僕がこの日あの瞬間に歩いていなければ交換できなくて、こういうのが人間関係の本質だと思う。継続は刹那が長くなるだけ。いつまで経っても今だけが続く。

 

湿原の手前には池があり、何気なく見下ろすと、生の蛇が居た。びっくり。まぁ距離というか空間の高さが違うため特に危機感はない。

 

湿原は予想通りのスケール感だったが、木道を歩きたかっただけだから全くオーケー。人とも全くすれ違わない。菖蒲の花が紫色で迎えてくれ、生え放題の草をかき分けないと通れない道もあった。帰り際に観た溜まりには、オタマジャクシがうじゃうじゃしていた。

 

帰り道、同じ高さでまぁまぁの近さのところに別の蛇がいてお互いびくっとする。事なきを得たが、あの赤い斑点、ヤマカガシではなかったか。結構な毒蛇という認識。

 

これだけ復路に着くには物足りない、という冒険心がうずうずしてきてしまい。一駅分移動しながら散策するルートがあるという看板の情報を元に山を上ることにした。ルートに入る前の道路で、ここって人が歩くように想定されてないよなって白線の細さを見て思う。そうしてモンシロチョウはふわふわと人間より1次元高い空間のルートを自由に移動している。一応捕捉しておくと、素朴な人間が移動できるのは縦と横の二次元で、モンシロチョウは高さも移動軸になる。人間が高さを移動できるのは、条件とか道具があるときだけ。

 

と、この瞬間。自分の心の挙動を表に現わせる「言葉」が自分の中にあるというのは良きことなのだろうなふと思う。表現は現実化というか実体化で、イメージを現実化する術がなければ当人の中ですら存在できない。

 

道中に第1コンビニがあり、灰皿がないのにちょっとがっかりしつつ、え、店内でミニトマト育てている! という意味が分からない面白さを感じつつ、ビール500缶をとおつまみようの燻製サラダチキンを買って歩く。

 

川というか沢というかがど真ん中を通っている公園には割と早く着いた。人はまだ少しだけ居る。なんだか良い公園だなと思ったが、特に印象はない。

 

ここからがもはや異界。

 

鬼ノ城(ただしこのご時世により閉鎖中)という名前に惹かれていくことにした。3キロとのこと。あんまり距離は問題でないが、帰られなくなるのも困るなという理性が一瞬働き、ヤフー路線情報先生に終電を確認する。23時。はい、ゴーサイン。

 

滅茶苦茶好みの道路だった。狭い、勾配凄い、自然が近い。時々車は通る。実家の辺りの道にほんと近い。ウォーキングエリアという看板に導かれ舗装されていない道を通る。きっとショートカットになるだろうなって。入ってみたら、これウォーキングではなく山道の中で生きてきた人の道だ。僕はそういう人だから、道筋は見えるが観光で歩ける道なのか。小川が道を横切ったりしている。ジャンプすれば飛び越えられるような幅だが。顔にまとわりつく作りかけの蜘蛛の巣から最近だれも歩いてないということは分かる。本能なのか学習なのか、こういう道だと駆けあがってしまう。老いとは。

 

ショートカットが終わると、民家で、猫が居た。少しにらみ合い、敵意はないよって目を瞑ってみたら居なくなっていた。しょうがないよなと思ってふと振り返るともう1猫。同じように目を瞑ったら、瞬きで返してくれる。ありがたや。特に触る気はないのでそのまま進む。

 

鬼ノ城の休憩施設はキープアウトのテープが貼られていて、駐車場もがんがら。それでも菖蒲はなんともなく咲いている。良き良き。この辺りになってくると、もう完全に人も車も居ない。ずんずん歩く。もうこの時点では汗だくで、ウォーカーズハイになっている。人の気配が全くしないものだから、大声で歌っていた。第1曲はこれしかない。「健康な体があれば良い、オトナになって思うことー」。HAPPY。

 

いつか、無限に高い声は出せないだろうっていつかの恋人さんが言っていたが、僕は歌いたい曲と歌える曲くらいは一致してきたような気がする。「ゆっくり~ゆっくり~下ってく~」

 

良くわからない大きなきのこもいた。

 

そうして、着き辺りまで上ってきたのだが、一向に旋回する気配がない。なんとかの大桜の道が回っていたから通じているのかと思ったが、通り過ぎる道はなく突き当りには山桜しか居なかった。一期一会だからハイタッチをして引き返す。

 

内心かなりヒヤヒヤしていた。Wi-Fiはもちろん携帯の電波も繋がらないし、位置情報もヨクワカラナイ。民家は点々としているし、引き返せばタクシーが呼べるし、なんでもないが、そう感じるものは仕方がない。どんなに便利な世界でもこういう不安はあるだろうな。

 

「行きはよいよい帰りは怖い」というが、僕が引き返したくないのは帰り道が怖いからではなく既知だからつまらないということにあるのかもしれない。またきのこがいて、どーもって挨拶した。

 

帰り道、まぁまぁの夕暮れで、行きにはなかった音がすると思ったら、大きなガマガエルが声を上げていた。懐かしい音だ。

 

帰り道、さっき見かけた猫2人が並んでいて、そうか親子だったのかと分かった。子猫氏はそうそうにどっかに行ってしまったが、親猫氏は流石の貫禄で、「お邪魔しました」って挨拶した。帰り道でも未知はある。

 

小走りで帰っていたら、4台の車とすれ違った。たぶん、行き道ですれ違った車も地元の人たちで、普通にここに住んでいる人なのだろうな。と、思ったとき、もしかしたら僕もこういう風に生きていたのかもしれないという発想が起こった。

 

空間上の世界線はどうとでもなるが、時間上の世界線は動かせない。例えば、僕がひと世代前の実家に生まれていたとしたらお父さんと同じように、結婚して子供が居て、PTA会長にでもなってということをしていたのかもしれない。ぞっとするというよりこういう枠にハマって生活することも可能なのだよなというだけ。この場合おそらくなんらかの不具合が起こり、そうそうに退場することになるだろうなという感じ。

 

1人が不安になるのか解放になるのかということも考えた。自然に1人で居るとき、依拠できるというか共通項としての誰かが居ないことをどう捉えるか。時間も空間も自分でちゃんと決めるしかない。時間の流れが伸び縮みするのが素朴な人の感覚のはずなのだが、客観時間に合わせようとする。

 

せっかく洗ったスニーカーが汚れているのを見てすまん、僕に貰われたことを不幸としてくれと一瞬思ったが、いやそもそもスニーカーは歩く為に創られたものだから、汚してなんぼよなと。コンセプトとしての機能を遵守している。本も読み潰して読者の一部になることが本来的な機能だから機能としてはちゃんと扱っている。本に対して綺麗に大事にしているってむしろ失礼な所作ではないか。それってただの所有物としての大事じゃん。

 

意識と肉体の関係もそういうことで、体の機能をちゃんと意識が乗りこなせるかみたいに感じている。僕の体はマジすげぇです。ちゃんと反応してくれるし留めてくれる。

反応値で言えば、肉体が全盛期とされている頃より遥かに今の方が高いし、もっと高くなってくれると思っている。

 

意識は体を持たなくて次元が高い分、体を馬鹿にする傾向がある。なんでそんなに重いんだとか、なんで動かないんだとか。

 

いやいや、体を動かすのはそもそもカロリーじゃないから。

食べたって動けるようにはならない。機械じゃないし。

 

体とも仲良くなってきた。

僕の視力が落ちないのは、眼球の筋肉をちゃんと毎日使っているからだろうという仮説があるのだが、どうなんだろうな。帰り道の道中ふと見上げたら、作者さん付きの蜘蛛の巣がいつくかあった。あと山兎さんもおったし。

 

帰り道の時間はとても短かったのだが、駅に着いた時、出発まで30分あった。

僕は、田舎の電車事情を知っているからまだ短い方だな、何もしなくて良い時間はすげぇ贅沢。あかりに寄ってくる虫の動きとか、今度はアマガエルとか、そういうのを見ているだけで過ごせる。

 

そうそう僕はこういう奴だったと自然の中で1人で過ごすことで自分が調律された。

どういう奴かというと、説明しにくいのだが、おそらく人より「今」が長いのではという感じ。覚えているではないのだよな。

 

長くなってきたからそろそろ。

 

パートナーとかどうでも良くなっているが、僕にとって必要だったらそういう人が現れるだろうと楽観している。想像上では、僕の時間と同じは無理だが、それも含めて許容してくれること。僕も当人が世界とは無関係に大丈夫な人であれば、調律する必要ないし。

 

最後。

 

帰り際は真っ暗で、半分こにしよってお姉さんが切ってくれたホールケーキのようなカタチをしている月が照らしてくれる。

 

このカタチが半分より大きいか小さいかはその人の無意識の学習による。

 

長くなると思っていたが、最長になった。

小説畑の人ならなんのこともなく読める量なはず。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。