歩くこと

 

リアル桃鉄の様相。ついでに自分の素朴の内奥に足を踏み入れる1日。
デトックス

この前のパンケーキに使った残りのスーパーカップを食べ、カルピスで水分補給をして仕事日より早く目覚める。2日目のマーボー茄子でマーボー丼と最後のきゅうりとワカメの酢の物の朝食。洗濯は昨日帰ってからしたから本日はなしで良い。

行先のルーレット。森を求めているのはともかくとして、過去に向くか未知に向くかの2択。奈良を見ていたら、道中の東大阪で、大学時代良く通っていたダーツバーのマスターに会いに行ってみるとか、いや、もう店があるかどうか分からないし、あったとしても忘れられているに違いない。

僕の中では、関わった人(関わっていない人でも場に居た人)はだいたい残っているのだが、相手にとっても等しい訳ではないという、当たり前が意識される。存在の濃度(ノード?)の不均衡が、人はあくまで自分の人生劇場を生きるしかないことの証左になる。これは淋しいことではない。諦観でもない。だから、演じるのが楽しい。

そういえばと、行ったことない大きな駅が近場にあった。駅に着くことだけを目的に設定し、あとは流れに任せることにする。新大阪駅から特急カードを使って和歌山駅へ。ゲームの桃鉄だったら、特急カードを使う距離でもない気がするが、新大阪駅から発進しているのが全席指定席の特急しかなかった。

すこし鳥取行きが気になったのは、某年前のこの時期、もっとも長く過ごした恋人さんとの別れ際、大阪に居たくなくて一緒に行ったのだった。ホテルで泣き散らかしていたな。別れたくないという方向ではなく、言葉と行動の乖離について詰める方向で。だったらそんな言葉発する必要ないじゃんって。言葉とやや距離感があるのはこの歴史によるのかも。沈黙というテクストもある訳で。

道中のお供はなんとなく太宰さんの「斜陽」。noteの読書感想文で見かけて、kindle読み放題にあったからスマホの画面で読む。消えることも美の一部ではあると思う。太宰さんのテクストから読み取れる人格って好きなのだが、いまの僕は世界をそこまで終末的に捉えることができなくなった。僕の中では接するかどうかと無関係に人の存在は消えないのだから。こうなった劇場で人の存在はどうやって決まるのだろう。気になるところ。

到着。1時間では車窓も気になって読み切れない。全集中したら読めただろうが、それではつまらない。それでは田んぼに水が張っている景色が見えないし。

和歌山駅、結構人が多い。印象としては地元でもっとも栄えている松山駅と近い感じ。何かそれっぽい名産物店に入って腹ごしらえするつもりだったのだが、今の僕の目には見えず、居酒屋みたいなところもビールがスーパードライだったから入れない。

何をするかと考えながら一服。目の端にちらっと「和歌山城」というワードが入ってきたから行くことにする。森はどこ行った。1,5キロくらいとのこと。観光マップを眺め、城を過ぎて海に行くかとなる。

道中にも入りたいとピンとくるものがなく、歩行速度とはいえずんずん景色は流れていく。
大通りに飽いて、生活道に入り込んだらビールの自販機があった。水分補給で一番搾りを買う。もちろん現実的な水分としての水のペットボトルもリュックの脇のポケットに入っている。

迷いつつ、和歌山城に到着。その前に城より大きい地方裁判所があって、なんとも言えない気分になったが。無造作に灰皿が置けるというのはあんまり人が来ないのだろうなと見受けられるが、何か楽器を鳴らしている人、お散歩している人とか、時間の流れが周りの空間と違っていて楽しい。城には登らなかった。天下を取りたい訳でもない。ただ、大きめの石階段で登っていくのに何やらテンションも上がる。歩く用のぺらっぺらのボトムスと引っ張り出した丈がほとんどない靴下でも汗をかいてくる。本日はかいても良い日。

動物園とか庭園もあって、面白い空間。石階段を下るときは、歩行速度で全体重を1足ずつかけていくより走るように膝をクッションにして体重を分散させた方が足に負担はない気がする。

ここから海に向かう。おそらく普通はバスとか車で行くべき距離。住宅街を歩くのも好きだだから問題ない。道々の庭々に植わっているとりどりの紫陽花に挨拶しながら。海に着いたらおさかな市場があるということで、何か食べられるかなという期待は裏切られる。施設は閉まっていて、釣り人ばかりが居るだけ。僕はたぶん釣りにはハマらない。

そうして、砂浜。泳いでいる人と寛いでいる人と、人、人。舗装道を歩いていたら、うずうずする素朴を感じて甘やかす。裸足になって砂浜を歩く。歩いているとさらにうずうずしてきて、歩きながら足を波にさらす。火照った体温が海水に移動して気持ちいい。うずうず任せは良かったが、後が大変。足を洗う水道が見あたらない。仕方ないからテトラポットに載って海水で砂を洗い流して、汗を拭くために持ってきたタオルを流用してなんとかなった。


そこから、さらに歩く。森は視界に見えているから、もしかしたら行けるかも。
なんとか寺駅に辺りに着いて、そろそろ栄養補給すべきと、コンビニでおにぎりを買う。若い店員さんは地元風がなくて、ちょっと味気ない。

この辺りからなにやら不協和音に気付く。あんまり世界を楽しめていない模様。そうなるとタイミングも合わなくて、結局和歌山駅までの3駅分、5キロを歩くことになった。いや、フィールドワークとしては興味深い。基本的にどの府県でも、生活道において歩行者には優しくない。まぁ、車がメインで歩くのは通学路くらいで普通の移動手段を歩行にすることは時代遅れでしかないのは分かる。

和歌山駅周辺で言うと、近くまでいくと遊歩道で線路沿いの道があったが、少し離れたところだと、大通りから一本逸れただけで一通じゃないのに二車線でもない道が続く。まぁそんものか。現実の道って基本的に継ぎ足しにしかならないし。


でも、僕の素朴は、どんなに交通手段が発達しようが、その前提に動くのはこの足だから移動できるかどうかは歩行が決めているという説を推したい。意志的世界で生きているとしても、意志と足は連動しているし。

僕の本日の物理的な足は悲鳴を上げていた。のべ15キロくらい歩く変人に付き合ったらそりゃそうなる。足裏痛い。コンビニの良さげな入浴剤でケアはしたが筋肉痛にはなるはず。

ここから本題。

物理的にはしないことで現実的にはできることをしようとするとき、抵抗というか、とろみのような膜があって、ここを越えることを僕は世界線の分岐と解釈している。何か重大な人生の分岐という意味合いではなく、もっと素朴なこと。なんなら自分の部屋の中にもある世界線

外でどれだけ可動があるかはこの延長でしかないような。
僕の突拍子もない移動も世界線の移動である部分とそうでない部分がありそう。


「素朴さんは大分愛されたい感じ」という言葉をいただいて、愛という言葉についてうごうごする。

この単語もプリズムみたいな多義語だから、どちらかというと、相手の語義を踏まえないといけなくて、一瞬、僕が足りないものを足したいとしている意味での愛されたいのかと反発が起こる。

でも、そんなことはありえない。
僕がそういう意味で愛されたいのだったら、とっくに恒常的なパートナーが居る。それくらいの縁はあった。でも、僕を決められることが嫌だった感。

ちなみに、僕の定義上の愛って人間とは離れていて、なんなら和歌山城ですくすく育ったきっと先輩だろう榎に触れたときに感じるもの。愛してもらってるわーって。不文の交換というか、僕は素朴であって良いとできる。

普通の人は何かの感情がないと自分に無い他人との隙間を想像力で埋めようとしないと言われて、びっくりする素朴。相手の事情に合わせるから人生劇場で存在感なかったのか。

世の中の人って、好きとか愛とかで何をしているのだろう。物理的な接触だけで自分の劇場に存在しているとしているのか。んな訳ない。

バタイユさんが「内的体験」で、言葉から解放されるのが素朴だとしていた。たしかに、「沈黙」もテクスト。

ここまで。

僕は物理空間で接して居る人の僕に対する言葉は添え物としか見てない気がする。


はい、おやすみなさい。

良い夢を。