おまけ

 

 

自由とは、何かが有る状態とか何かを選択できるという足し算ではなく制限がないという引き算としての概念である。

 

これは数学的思考とは何かというkindleで読んだ本に書いてあったのだが、たしかにそうなだよなと思う。厳密に考えると、制限がないことによって、何かを持ったり、選択肢が増えたりするという因果関係の何処に焦点を当てるかという言葉遊びみたいなものでどちらも正しいとは思うが、概念の捉え方は遊びでは済まされない部分がある。何故かというと、どちらに当てるかで世界が全く別物になるから。

 

結果としての足し算的に自由を捉える人はいつまで経っても自由にはなれない。だって、ある何かが足されても、別の足りない何かが発見されるだけで、無限に足さないといけなくなるが、無限に足すということは不可能だから、結果的に前提条件である制限に囚われる。

 

前提条件の取り除きも無限に引かないといけないということになりそうだが、どれだけ引いても0になることはなく、自分という1は無くならない。自分を制限している前提条件は自分が決めたものなのか、もともとあるものなのかを吟味するようになると、心はまぁまぁ自由になれる。

 

自由をはき違えているから、他人の自由に口を出せると想えるようになるのだろうな。

この文脈においては、他人としての自分もいる。

 

言葉は不自由。言語法則にある程度従わないといけないし、ある言葉がどんな意味なのかをざっくりとでも知っていなきゃいけない。ただ、これは自分があえて選ぶ不自由だから、なんのストレスもない。

 

さておき。

 

少しずつ来週の最遅番に備えて、午前中遅くまで寝ているようにしているのだが、なかなか早起きの癖が抜けない。起き抜けにインターネット世界を徘徊し、パズドラも進めてみようと思ったのだが、案の定むなしくなってアンインストールした。

 

ざるうどんとみょうがとトマトの卵丼を食べ、動画を見たり漫画を見たりして過ごす。

 

ちひろさん」という漫画はなんだか泣けたし、優しい世界だった。努力して何かになるみたいな熱血的感動ではなく、ただその人であって良いという世界。主人公は元風俗嬢で今は弁当屋さんの店員。風俗嬢時代の漫画もあるらしいが、そこまで読みたいとは思わない。

 

社会に馴染めない人に焦点が当たっている。ニューハーフ(今もこの呼称で良いのか)、攻撃的な方向としての虐待、あるいは穏当な方の虐待を受けた子供なぞ、色んな人物が出てくる。官能的な描写は一瞬しかない。穏当な虐待というのは、家族とはこうあるべきだということに子供が従っているうちは良いが、そこから外れると激昂するというやつ。

 

作中では、家族旅行をキャンセルすることを選んだら「家族より大事なものはないだろー!」って暴力を振るわれていた。あるべきだという思想自体が囚われなのだが、まぁそういう思想がないと成り立たないのも分かる。自我が個別になった時点で、家族は一種のロールプレイとか「ごっこ」になったのだと思う。良くも悪くも。だから、別に子供のことも親のことも好きであって良いし、嫌いであっても良い。良妻賢母的な人が苦手だと主人公は言っていたが、その感じは僕も分かる。

 

細かく書くと文字数がいくらあっても足りないが、「なんの打算もなく好きな人が居るというのは良いことだ」とニューハーフのお姉さんが言っていたのは良かった。好きであるというのは、因果でいうと因であって、結果から逆算されるものではないし、なんなら果という方向性を持たない因としての好きもあって良い。僕以外の人と幸せになれば良いという祈りみたいな感情は、分類的には好きに含んでも良いはず。

 

あと、どうしようもなく1人で居たいときがあるというシーン。主人公の虚ろさがとても分かる。主人公は女性だからそういう方向性の外力は僕よりもっとあるだろうなとは思う。結婚するのが幸せだみたいな。主人公はそういう外力を流すどころか、反発して現実的に排除するのだが、僕にはない力だなと思う。

 

ちひろさん」というのは本名ではなく、風俗嬢時代の源氏名なのだが、最終的には現在の生活の場で本名になり、ロールプレイとしての父親と母親を設定して、良い感じに終わる。

 

血が繋がって居ても心まで繋がることはない、と親子関係を語る。プレイとしてのお母さんの実子は自分が楽しそうにしていても楽しそうではなかったし、ちひろさんは母親がそうだったとか。「自分が面白いということについて、そうだねって同意してくれるだけで良かった」っということを愛の定義としているみたい。僕は同意ができなくなくても承認できるという説だから、結末辺りには賛同はない。なんか良い感じに収めたなとは思うが。

 

ところで、作中に孤高の雌猫である「マダム」というキャラクターが出てくる。好きに振る舞うツンツン猫で、ビジュアルもあまり可愛らしくないのだが、主人公は存在として尊敬している。これは、ちひろという源氏名の名付けの基になった幼少期に出逢った人ととの近似なのだろうなという感じ。これを前提に生きている。

 

僕もこのマダムは好き。気が向いた時に相手してくれるということが存在として承認されている感じがある。この感じを言語化するのは難しいのだが、ある存在にとって、僕が存在していていて良いよって認識されている感じ。

 

 

現実に戻ったとき、僕はどうしてこうなっているのだとふと思う。関係性を前提条件としない、僕が僕で在って良いって誰が教えてくれたのだろうって。あの田舎にそういう精神を持っていた存在って居たっけ。もしくはどこかの漫画なのか。いや、自我が芽生える前、、、。

 

僕にとっての人は、足すものではなく引くものなんだよな。自分の制限が解除される存在。

 

ついでに、現実の続き。

 

鏡を見たときたまたま自分の目が目に入った。そこに意志が宿っていたものだから、これは出かけたいのだと思い、近所の有料の自然公園に向おうと決めた。あいにく空は曇天だが、雨が降ったら降ったで森の音がいっぱい聞けるし。

 

途中で、本屋に寄って何処かのベンチで読む用の本を買おうとしたが、邪念が入っていると良い出会いはない。現実を日記用に寄せすぎだと気づき買わなかった。あくまで、本は本の為に、無意識レーダーが確保した物を買う。何かのついでではなく。

 

そうして、行ってみたら、やはりというか、このご時世の影響で開いてなかった。タイミングが合わないというか、行こうとしたら行けた日は過去にいっぱいあったから、僕の怠惰が原因である。ただ、過去の自分が愚かだとも思わない。かなり自分で自分の世界を制限していたから仕方ない。世界の狭さは主観的なもの。可能性の話ではなくするかしないか。

 

そういえば、このご時世をやたら悲観して捉えているホームページを見ているのだが、なんというか、自分が生きている時代が特別だと思いたい人は多いよなという感じ。時間の捉え方の問題だが、戦時中とかと比べたら全然悲観の対象にならないのではという感じ。空爆でもっと死が近かった世界と今のマスクがとか不要不急の移動の不自由を比べると生命が確保されているからこその不安よな。

 

そうこうして、色々歩いた。

 

公園に向かう前に、紫陽花の種類が豊富な階段を上ったら、許可なき者は立ち入るなと書かれていて、引き返す。向かっている最中の池には、亀がやたらと泳いでいる。亀は臭くて好きではないのだが、この記憶ってどこ情報なのだろう。

 

森の中で1人になりたかったのだが、公園はどこも人が必ずいる。割とキモチワルイ。ここで釣りするのは禁止ですという張り紙の前で平気で釣りをしている人たちもいた。「人の理性」とは。禁止の理由も書かれていて、「通る人が危ないから」とのこと。ほんと人って他人のことどうでも良いんだな。一般論ではなく、具体的な釣り人に限定して。

 

自然の話をしたい。トラウマ対象のオオスズメバチが飛んでいる姿も見た。相変わらずのでかさ。そんで、よく見ると空気中に綿毛が飛び交っているのも楽しい。どこから来た綿毛なのか。そうしてまた階段、今度は竹でできていた、を見つけて心のままに上ったら、なんだか濃厚な人の気配がしてまた引き返す。降りているときにちょうど夫婦みたいな男女のカップルに興味津々でここは何処に繋がっているのだって感じで観測され、すまん、全然たどり着いてないと、ちょっと恥ずかしかった。

 

雨の音は聞けなかったが、なるべく奥に潜って、一人対森になる空間を見つけて、紅葉か楓か分からないが、ちょっと触らせてもらった。実家の母屋に樹齢がどうなっているか分からないくらいの木があり、座らせてもらっていたことを想い出しながら。

 

虫取り少年たちが居て、よくよく木を見ると、カナブンが密集している木がある。そういえば小学生時、同じことをやっていた。なんで虫の中でカブトムシやクワガタに価値があるのかも今や分からないが、木に怪しげな蜜を塗って、トラップを作り回収に行く。足は悲鳴を上げていたが、歩いていたら、桜の木にくっついたカミキリムシを見かけた。

 

こういうのが「生きている」ってことなのだろうなと思った。

ただの現象としての存在。

 

人は生きているということを定型的に制限しているから、なんかしんどい。人だって生き物なのだから、バイオリズム的に1人になりたい素朴がある人も居る。

 

たぶん、いつも人と一緒であることにストレスがない人は、ヒトなんだろう。

それで体調崩すというのは、無意識からのメッセージだとは思うが。

 

ここからもう少し深い話。

 

帰ってきて、動画(スマッシュブラザーズ)を観ながら、アプリでするものもないし、数学とかプロブラミングとかを読みながら書き起こした。

 

数学世界って不自由の象徴みたいなもので、ルールで縛ってどこまで行けるかみたいなこと。例えば円って、上から見たら直線にしかならないし、ルールを所与のものとしてから世界が始まる。これが現実に応用されるということは。

 

あと、時間のこと。時間って何をしていても流れるものだから、消費しているという意識はないが、ほんとに大事なのはここなんだろうなと。

 

個人にとって、時間は有限でしかないが、客観時間とは別の主観時間には伸縮性がある。

 

さらに、法学。

 

倦怠期だったことを過ぎて、改めて素朴な自分として接することにしたら色々発見があった。おべんきょってある程度、それを所与のものにしないと受け入れられないのだがそれを当たり前とすると、素朴と連携できない。

 

意思表示とか法律行為の概念が良く分からなかったのだが、法律行為が有効になる前提条件が、外形と帰責性だと書かれていて、なるほどと思った。文字としては読んでいたのだが、認識できてなかった。こういうのは当たり前の事。

 

外形というは、売ります買いますみたいな言語交換が典型だが、そういう風にみえる現実を取ったということも含む。でも、現象としてのこれでは限定できないから、意思を持ってきた。そういう志向があったのでしょう、だったらその志向通りの法律関係が在っても受け入れるよねって。

 

なるほど、僕が結婚式は好きだが結婚自体を祝えない意味が分かる。

 

結婚式はお祭りだし、何か色々開示されるから良いのだが、結婚は民法が決めた制度でしかなく、当人達が決めた不自由である。制度を利用することと幸せが直結しないのは当たり前のことだから、素朴な自分が祝うのを拒む。制度は利用するものであって、そこに収まるものではない。この制度を選んだら、税制が優遇されるとか、相続とか見とれるとかあるが、この関係って、本当に人と人が結びついているのかという話。

 

むしろ。

 

この家族制度ってマクロで見たら、国家がどの単位で人を捉えるかみたいな文脈でしかない。単位としての自他への分かり易さ。

 

個人的には自分という存在に接した子供がどう育つのかは気になる。

手って世界との繋がりだから繋ぐし、だからといってあんまりべたべたしないし、自分の世界観を壊すような発言も取り上げて、聞く。

 

だからとて、こういう存在が収まるべき場はないのも知っている。

 

今のところこれで良いやという感じ。

 

では、おやすみなさい。

 

良い、自分を。