混在

 

 

神様の存在が滅んで社会という受け皿が生まれたという説が浮かぶ。

 

 

本日もごろごろ。朝ごはんは納豆かけご飯で昼は昨日の和風卸酢豚丼(マヨネーズがけ)。ゲームもして動画も見て、漫画も読んで。暇を愉しめるのはいいこっちゃ。

 

満月さんの自炊が捗っているについての朝の通話。

同居人に弁当を作ったら、頼んでないとひっくり返されたことがあるらしい。「作ってやっている」という感じが気に食わなかったとのこと。たしかに満月さんの語用が生まれた環境でもってやや粗いのは分かるが、少し過ごせばそんな対価的な人ではないのも感じるだろうに。喧嘩のような会話を日常的にしている家庭環境も直に見ているとのことなのに、そこに至らないのは何故だろう。

 

相手のことを考える暇(余白)がない。僕も最近まであんまりうまく暇を扱えなかったが、今は余白がない人のことも暇の遊び方も分かってきた。運試し場に行かずとも部屋が汚くとも本は読める。書物は書かれている情報を自分の頭に引っ越しさせていくのではなく、読むことによって余白を増やす作用という感じ。読書こそ暇人の嗜み。

 

暇と退屈の倫理学で、資本家の前の貴族の生活の為に働かなくて良いという意味の「暇」という事態を人々は羨んで居て、それに倣って暇を自慢するみたいな話があった。なるほどと想ったが、提唱者の歪んだ願望があるらしく、批判されている模様。

 

暇を消化する術を知らない人が暇を持て余すことで退屈に転嫁するというのはなんとなく分かりみ。暇は埋めるべき余白であるという考え方は、活動が生活だという観念がないと出てこない。暇をそのまま余白として扱う術というのは、これだけ社会時間の目まぐるしくなっていると習得するのが難しい。

 

 

マックスウェーバーさんが言うところのプロテスタンティズムが資本主義の活動としての禁欲と一致しているのもそういうことなのか。7つの大罪にも怠惰があるし。消費せずに自己の何かを増やしていく活動こそが人の生活だという禁欲主義。主義という概念も1人歩きしていまや疑似神様になっているけれど。

 

 

ともあれ。

 

引き続き法学脳。

 

僕がこれを日常の思索に組み込めないのは、専門家を志望していてことで独立させて捉えていたからであって、だからこそ感得がうまくいかなかった。学問の敷居は便宜的な研究対象の区切りでしかないのに、それだけで把握しようとするとうまくいかない。知識を積み上げて分かっていくという手法は僕には合っていない。そこを景色として眺めて目に留まるようになるという感じだから、細々とした知識は問題ではないと注視しないようにすることによって、それが鮮明になるというか。

 

昨日の社会劇場の話は、劇場が自分の現実が含まれていない非現実的な空間と捉える人にとっては、批判と読めるかもしれないなと思った。あくまで当事者として登場している空間が現実であって、他は舞台だという捉え方。僕は当時者で居るところも舞台=劇場と捉えており、現実は劇場の一部であるという認識だから、他人事というニュアンスは含まれていない。

 

法律書読んでいてなんか変だなと思っていたのが、若干解消したのは書いたと思う。書いていて舞台としての社会は観測者としての客観であって、社会という実体がない存在に監視されているという設定が囚人監視のアレと似ているなと感じる。いま調べた。ベンサムパノプティコンベンサムさんはこれを社会への皮肉として提唱したのか?

 

社会とか政経の教科書でも法律関係の叙述ってほとんどない。三権分立とか罪刑法定主義とか、国民の義務とかは出てきた覚えがある。国民の三大義務って厳密言えば嘘だが、最終的にはずれていないし都合が良いから詳細な情報を省いているのだろうな。

 

教育は親とか国家が受けさせる義務だし、勤労も別に義務ではないが勤労する能力があって勤労する意思がない人を国家は保護しないというというだけだし、納税の義務が一番アレで、納税義務を設定する為には国家がきちんと法律で規定しないといけないという義務を何故か国民の義務に転嫁している。憲法は国民に義務を設定していないというのが定説だったような気がするが、定かではない。

 

義務は意思によって自らが設定できるというのが現代私法の理念で、国家は秩序維持やら公共の為に一方的に義務を設定できるだけ。あくまで法律に基づいて。

 

 

ちょっと外れて、最終講義で自画像史の研究家の話を読んでいる。自画像の起こりは個人という概念が生まれてからだみたいな。これも自己が見られるだけの対象ではなく、自己で自己を見る視点が生まれたからで、ここには客観の概念が不可避だと思う。自己が自己を観るなら内省で良いが、誰かから観られる自己を自己で観るには第三者的な俯瞰の媒介がないと無理。

 

このまなざしを排除しようとした運動がシュールレアリスムだったのかもしれない。

というのも、読んでいる数学の本の「構造論」の中にシュールレアリスムが出てきたから。物事の構造を構造だけで捉えるときに一般論は不要という意味だったのかは分からないが、何か変な共時性。それだけを眺める観測を追求しているのが数学なのかという視界。

 

 

戻って来て。

 

僕が法律の概念がなんだか変だなと思っていたのは、人間像の設定について。

平等な個人はもう無いから良い。労働法とか消費者保護法がやっている。

 

気になっているのは意思のところ。

脳科学的には人間の意志とされるような任意性は無いという認識っぽい。何かをしようとする前に体が動くという所作をするらしいし。

 

だからといって、僕は人の任意的な動きを運命として片付けてもいない。部屋と同じで脳内空間も取っ散らかっているから、何かで決めて苦しくとも安泰みたいな精神的境地は求めていないし。

 

面白いのは刑法的因果関係の議論。

人が亡くなっているから面白がるのは不謹慎というのは、自分が当事者である世界限定だと想っているからスルーして。

 

人が介入することによって、常識的な因果の連鎖が覆されるという意味において、やっぱり人は任意で動ける唯一の存在なのだろうなと思う。

 

暴行を受けて、そこから逃げるために高速道路に生身で乗り出して引かれてなくなってしまったという刑法を勉強している人には有名な事例があるのだが、普通はそんな危険なところに逃げる訳がないからせいぜい傷害罪となりそうだが、裁判所は、死の結果まで加害者の責任とした。そこにしか逃げる術がないとまで追い込んだから、被害者の突拍子も無さげな行為も含めて加害者の暴行が因果の起点と結果になっているって。

 

刑法の犯罪って必ず裁判所を通るから、分かり易い。

ただ、この秩序も現実的な運用としては、全ての犯罪が全部処罰されている訳でもない。信号無視が全部検挙される訳でもないし。厳密には交通ルールは道路交通法危険運転の法律が統制しているが。

 

かつて法律事務所の面接の時に、法律の何が面白いですかと聞かれて、有事が起こった時に浮き上がって来るのが法律問題だけど、有事が起こらない時の日常も統制しているのが法律のルールであって、そこが面白いって言ったら、弁護士さんがきょとんとしていたのを想い出した。有事の為に備える仕事だから、有事がないと仕事にならないだろうし、そんな当たり前を認識する必要もない。

 

案の定試用期間で駄目になった。

もちろん糧にはなっている。

 

法律の話は専門的な知識ではなく、僕の日常に組み込むための試用だから、情報として読む必要はありません。残す物ではない景色のように眺めるのが肝要。

 

もうちょっとブレンドできるようになると良いのだろうけども。

 

存在として残りたくないという劇場観はどこから来ているのだろうな。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。