普通が無くなる世界

 

 

うごうごしつつ、もやもやしつつ、それでも仕事をいつも以上に楽しんだ日。いっぱい仕事としてやるぜーという勢い。別に査定とかスキルとかには成らない。知らぬ間に自意識で理解していないような概念を発話していた。論理の飛躍ではなく、蓄積の結晶みたいな。これについて明日Excelをいじって演算してみよう。

 

発話といえば、恋人さんとの通話のとき。僕は一生懸命話しているらしい。たしかに通話は1人の語彙でするものではないし、一生懸命語彙が探されてするもの。対話しているときの相手の沈黙が大好物なのはそういうことか。別にキャッチボールがしたくてするものではなく、ボールを投げたら箱が返ってくるでも良いし、波紋でも良い。

 

いや、何を書いているのだ、これ。

対話は相手と語彙を合わせることは要るが、日本語であればだいたい問題ない。思想とか歩調まで合わす必要が無いということ。僕は後者もやっちゃうから、イエスマンのように捉えられていた。

 

さておき。

 

鶏ささみを片栗粉でコーティングしたら、柔らかいままで食べられる。玉ねぎとピーマンと、コンソメ顆粒と中脳ソースで味付けした名もなき炒め煮がほんとおいしい。冷蔵庫の中でおつとめ品になってしまったきゅうりを今朝発見して悪くなったところは取り除いてワカメと酢のものにした副菜もなかなか。

 

昨日書くタイミングがなかったのだが、三島由紀夫さんの「純白の夜」で、三十を越えた男の描写が出てきて笑う。この人は寝顔の時に無警戒で若くなるらしい。その安心は私がもたらしているとヒロインがにやりとするシーン。僕の寝顔は年相応に老けているらしいから、真逆だ。無意識が無警戒なのと意識が無警戒なのはどちらが重いのだろうな。

 

 

ここ最近でもっともはやく帰宅できた。洗濯やらなんやら。あぁストレスチェックもやった。こういうのは偽れない人。行動経済学の本で、日本人はそうだ、違うを選ばずに、ややそうだとか、まぁまぁ違うみたいな選択肢を選びがちというのがあったな。たしかにこういった自己診断系で、0か1みたいなデジタル的な選択はしにくい。

 

僕が弱いのは、困った時に相談する相手がいるのかとか、聞いてくれる人は居るのかとか、意見が上に吸い上げられていると実感できるのかみたいなところ。特に必要とは思わない項目。知人に相談した方が馬鹿を見たという経験則もある。というか、特に選択に対し正解を求めてなさげ。人間は一生情報量不足なのだから、行動に向けて決断する力の方が大事。

 

孔子さんだっけ? 何歳で惑わずだったか。

 

「学習する組織」も学習は行動にかかると書いている。頭の中に知識を採り入れたところで行動に出力されないのであればないものと同じ。だから一夜漬けで勉強したことはすぐに跡形もなくなる。もちろんここの行動は頭の中での運動も含む。

 

頭の中のうごうご機関は永久機関というか一生機関だから、書くことが無くなるということは無い。生きていれば世界に感じるものは尽きないし、その感じを言葉で描写しているというてきとーな感じ。

 

 

いつものごとく脇道。ちょっとした法律談義。

 

国葬問題についてはポップアップするニュース出てきたら見るようにしているのだが、東京地裁が不適法却下したらしいな。専門用語で却下はいわゆる門前払いで、中身を裁判するまでもない、訴えが整っていないということ。

 

どこかで書いたような気もするが、僕は行政訴訟で差し止めに持っていくのは無理筋だと考えていた。ニュースを書いている人も行政(事件)訴訟法に詳しい訳でもないから細かいこと書いてない。書いたところで読めないし、まぁこれは良いとして。

 

行政事件として差し止めにするためには、行政機関の措置が処分に当たる必要がある。処分の定義も確立されているのだが、ざっくり言うと、法律に基づいてなされる行為のうちで、国民の権利義務を規定したり、法律関係を形成したりすることを法律が認めているもの。ざっくりしても分かりにくい。営業停止とか、免停みたいなイメージが分かりやすいか。

 

これを国葬で考えると、どう飛躍させたって、国民が国葬に賛同するような義務はない。納税したお金はいったん国の予算になっている訳だし、そのために納税しろという義務があって納めたお金でもないし。専門の弁護士さんがアドバイザーで訴えているのに、何かもっとやり方はなかったかと思ったり。法律に根拠がない行為をしようとしているのなら、差し止めではなく無効確認では。いや、でもこれも処分性が前提か。

 

この歩み、脇道どころか法律の森へ迷子になるからいったん帰る。

 

 

はい。

 

本日のもやもや。いや、個人的にはもやもやしているのは悪いことではなく、うごうごより手触りがあるというか、物体性があるというだけ。

 

多様性について考えるというテーマがトップページに出てくる。

(タグを付けなければピックアップはされないはず、されたくねぇ、なにせ1つのテーマで1記事を書いてねぇ)

 

面白い記事もあった。多様性という言葉自体が多様性を退けている、という同じような言い回しなのに、1つはマイノリティを認容するってなんて上から目線だ、けしからんとなり、もう1つはこの言葉って分断させているよねって冷静な視点。

 

僕は割と後者寄りの視界。多様性より「人それぞれ」というフレーズの方がしっくり。でも、もっと広く捉えるとこのテーマはとても難しい。

 

という感じで、多様性考。

 

僕は道徳の授業の相手のことを考えようみたいな概念はずっとしゃらくせぇとまではいかないがなんか違うと思っていた異端だから、読み流すのが吉。

 

「普通とは当人がちょうど良いと感じるところ」という定義の記事もあったが、そのちょうど良いはどこから来ているかとか、個性の尊重はちょうど良くないところも認め合うというところにあるのではという感じで、この著者にとって相手がちょうど良くなくなったらどうなるのだろうと想った。

 

「人それぞれ」という概念において、人は一様に違う部分があるという意味で一括りになる。自分にとって気持ち悪い性癖を持っていたとしても人としては1つ。虫を食べる人とかは日本圏内でもあるし、個人的な世界観における多様性は、まさに尊重の程度の話。攻撃しないくらいがきっとちょうど良い。存在を認めるまで行く必要はない。自分の世界にはそういう人もいる。気持ち悪かったとしても妥協して一緒の世界に居るというくらいの感覚が尊重。

 

でも、文化とか社会における多様性になると別の考え方をしないといけない。

ここにおいては、マイノリティが参与するのは承認とか追加になってくる。

 

これをデザインするには文化人類学者のアドバイザーが要るような気がするが、そういうブレーンが行政に居るという話は聞いたことがない。政治という今の視点だけではどうにもならないような。

 

文化とか社会って別に正しい進化として形成されたようなものではなく、当時の為政者ないし領土に居る人達の様式によって生まれている。今日読んでいたところだと、農耕社会では、女性の権力が強くなるが、外敵である野生動物とか他の領域の人達から防衛する為には男手が必要で、権限が分配されていくみたいな、恣意的に形成されているものだとか。

 

多様性の「様」は様式だとすると、様式を加えるのは社会的な追加コストになる。

今は認められている視覚のハンディキャップのためのでこぼこな方向者通路とか、脚のハンデの為のスロープとかは、現実的なマイノリティが承認されたからできている訳であって、肉体的な欠落があった人は当然に淘汰されていく社会からは進化している。

 

あと、きっとトイレが男女で分かたれているのもトイレは一つの穴ぽこで良いという人の一様性からの分化。

 

思想とか嗜好とかの人それぞれの様式を承認していく社会。もちろん承認されていないマイノリティの層からすれば、自分の属性を認めろーってなるかもしれないし、おそらくなんの波及効果も考えられてない。自分の置き場を社会に求めるのだから、そりゃそうだ。

 

社会を運用する視点からすると、なるべく統一されていた方が良い。だってルールの運用がめちゃくちゃ大変になる。この属性の人はこうで、あの属性はあぁだって公的空間の運用をそれぞれ臨機応変に判断できるような人材を教育するのも大変。

 

外から見えないところをどうやって分かったら良いのかって、普通に生活している上は不明過ぎる。

 

というところで、僕が思っている多様性の本質は、当然ではないという属性である自分を含めた集団が社会に承認されるにあたって、自分の属性とは全然関係ない属性も承認できるのかという個人の思考コストのこと。普通みたいなちょうど良い塩梅の基準が無くなった後に、きちんと他人のことを慮れるのか。

 

僕は人それぞれの人になったから、犯罪的な行動様式がない限り普通の倫理違反とか、精神上の不具合も問題ないけども、多様性を考えている人達のほとんどは、外の多様性まで考えていないと思われる。

 

だから悪いとは思わないけども、名前が付いたからその枠に存在認証があるということにはならないよなぁって。

 

変な話、多様性を考える人ほど別に個人ではない。もちろん個人であれば良いともならない。

 

きちんと書こうとするほど注釈しないといけないのが大変。

 

 

はい。

 

また明日。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。