距離感
時間に対してはぼーっと、事象に対してはきちんと。
新調したシリコンカップがぴったりはまったので、本日の弁当も貼ってみる。副菜はブロッコリーをレンチンし、マヨネーズと鰹節に醤油を垂らして和えただけ。美味しいです。
漫画もアプリで並行して10本弱読んでいるのだが、その中で面白いなと思ったフレーズ。「葬送のフリーレン」という。1000年以上生きている(だろう)少女のような姿のエルフの魔法使いが主人公で、勇者と旅して魔王を倒した後の時代の流れを描いている。他のエルフとの会話。
「人間は寿命が短いから判断を先送りできない」
たしかに何が大事か判断できるようになったらさっさと選んだ方が良いよな。
ところで、明日のクリスマスは帰りにスーパーに寄ってケーキを買い夜空の下で食べたあと、通常営業で文章を書く予定だったのだが、外で飲む予定が入った。今後誰かとお酒を飲む機会があるとすればあの人かあの人かくらいに想像していたのだが、これも縁か。
なので、明日には定時更新(誰も求めていない)はないかもしれません。
さておき。
年下の上司と雑談をしていて、一般的感覚とのズレが実感された。
今日のニッキはここに集約される。
まず、SNSについての捉え方。
今時の小・中・高生は、SNSで友人を作ることが多いらしいという情報に対して、信じられないということを仰る。出自も得体もしれないどう偽っているかも分からない人と関わるなぞリスクが高すぎるという説。
たしかに、一般論としては分かる。気持ち良い演出された空間に安心を求めるのであれば、なんとなく危うい。言葉とか画像はいくらでも加工できるし。
ただ、僕としては現実の関わりとSNSの関わりを特に分けていないのだよな。実際SNSだけの関わりの人と何人か会ったことがあるし、別に出自に証拠がなくても普通に具体的な人だし。相手が運転する車にも普通に乗ったし、特に危険は感じない。
このモノサシを自暴自棄なのだと評してみていたのだが、今想うと、僕は自分の素朴な目を信じていたというだけだなとなる。何かややこしいことになったことはなくもないが、物理的な意味でない危害を与えようとしてくるのは現実的な関わりの方が多かったような。
現実もSNSもたまたま出会うという意味では同じだが、現実の方がたまたま度は高い。たまたま学校、職場が一緒、なんなら最初の家族も。確かに物理的な危害 がないという安全は、現実世界においてそれをすれば当人が社会的に抹殺されるという意味で確保されているとは思う。でもだからこそ精神的な攻撃性が生まれるとも言えそう。いじめとか虐待とか。合うか合わないかを問題にせずに、場の中で同族として括り括られる弊害。
SNSにおけるたまたまは、もう少し意志的要素が含まれている。僕が何か検索しようとしないとその人には一生出逢えない。別に直接やり取りがなくても、自己開示を読み合う時点で、現実の薄く広い関わりよりは深いとも言えなくもない。僕の中ではこちらの方が楽しい。
ここでちょっと専門的な法律の話。
一般的にいうところの犯罪で、過失より故意が重いのは何故か。そんなの当たり前だろうというのは分かる。ただ、その当たり前のナカを言語化できる人はどれくらい居るのか。
1つの説明として、刑法における犯罪の文字による規定は、その行為は駄目ですよとルール違反を記述することで、そのルールに違反する行為を意志によって行うことを制限して未来の犯罪を抑止することにある。故意と過失の違いはルール違反であることを明確に認識しているかどうか。一般語用における故意は認識した上で「あえて」するわざとみたいなことが問題になるが、ルール違反であるかを認識しているかどうかが問題になっている。
認識すればその行為をやめるべきというルールが働く(だいたいは無意識下だと思うが)が、認識してないことを禁止しても意味がない。自分の傘だと思って他人の傘を持ち帰ってしまうことは良くないことだが、窃盗罪で罰することはできない、みたいなシステム。
もちろん、窃盗罪の条文みたいな法律の知識を知っていることではなくて、他人の傘だと認識しつつ持って帰れば、刑罰システムが発動される。よくできているなぁと個人的には思ったがどうだろう。
戻って来て。
時間の捉え方も随分と違うのだなと思った。
ネタバレすると、明日の飲み相手は年下上司のさらに上司にあたる人。ふわふわしているが個人的にすげぇ仕事できる人なのではなかろうかと思っている。
なんで誘われたのだと思って年下上司に探ってみたのだが、どうやら単身赴任で嫁と子供の元に帰らなくて暇だというだけらしい。僕は2人で飲むのは基本的に好きだから問題ない。
ただ、暇ってなんだろうなという感。
僕のナカでは暇な時間なぞなく、暇だから誰かにコメントをしている訳でもないし、自分でその時間を選んでいる。
年下上司がこのさらに上司は地元に帰らない休日の時間をどうやって潰しているのだろうと言っているのもやんわり気になる。さらに、人のことを交友関係を前提にして語るのがしっかり気になる。知り合いが多いからこの地域では(時間が潰せる)みたいな。
嫁も潰しなのかと思うのは不謹慎だが、ここでキルケゴールさんの「死にいたる病」。
なにに対する自己なのかという尺度の話。社会に対する自分を学習して人はオトナになるが、これを神に対する自己にすると、無限の自己が生まれるというとのこと。
このフレーズを読んで、おおぅと唸り声が出た。僕はキリスト教における神様を尺度にしてないが、ここでいう神って要は「不可知なもの」をそう呼んでいるだけであり、宇宙とか環境とかで良い。
こういうものに対する自己で見たとき、僕は全然寂しくない。なんで恋人が居ないかって聞かれたら、自己完結していて、欠けているものを補充する意味で人を求めていないので、と答えてみたいところ。
僕にはもうすぐ終わるかなと思っている勝手に好きな人が居るのだが、個人的な場では一回も会ったことはない。パートナーさんと社会的に結合した方が良きだろうなとさえ思う。
「君の話」で、猫を飼える人は猫を飼わなくても良い人が自由でするものであって、猫に安息を求める人がすることではないというフレーズがあり、人の関係もそうだよなと思ってしまっている。
僕は1人で足りている。でも、特に人と一緒に過ごせない人ではない。人の話聞いてネガティブになることもないし、行動準則にも合わせられなくもない。人を自分の人生の潰しと扱わない人であって縁があれば誰でも楽しそうな感はある。
誰も取らなくて良い無視される椅子を誰が選ぶのか、みたいな空想。
好きな人とは、何事もないほうがすんなり収まる方が良いような感じ。
僕との現実があるより幸せになってくれる方が嬉しい。
結局僕の最初の方に戻っている。
基本的に選ばれない、選ばれなくて良いという感覚がある。
自己卑下なのかと思っていたが、自己をそういう指標で捉えてないだけだったのかも。
誰かが選んだ自分がこれと一致しているとは思えない。
はい、おやすみなさい。
今宵も良い夢を。