多角

 

 

21:57から。

 

 

2連休のあと本日仕事をして、明日もお休み。

 

 

2連休で日記を書かなかったのは、満月さんの実家でのほほんとしていたから。1日目は手巻き寿司で、3リットルの本麒麟をいただいた(お母様的には2日分だったらしいが1日でぺろっと飲んでしまった)。

 

2日目は、パグ氏の散歩をした後、お好み焼き屋さんでサッポロビールの中瓶を3本ほどいただいた。弟勇者氏も3杯くらい付き合ってくれてなかなか楽しい。もちろん、呑ませようとはしていなくて、僕が美味しそうに飲んでいるから飲んでみようとなったのだろうと思われる。

 

満月さん家の心地良さは、場を気にして自分を制限しないところ。お好み焼き屋さんでお母様はイヤホンをして動画を聞き出し、お父様と弟勇者はスマホをいじり出し、僕も本を持って行って読みだせば良かった。

 

ただ、ちょっと想うのは、人との関係において、弄るという道具を用いがちだなという感じがある。僕はそこがどうでも良くて、あんまり何を言われても気にしない。鋼のメンタルではないけれど、なるほどそういう風に見えるのかというくらい。

 

これって一般的な視野からすると結構きつい気もしないでもない。愛情表現がちょっと歪んでいるという感じもある。弟勇者がビールに付き合ってくれて、ちょっと顔が赤くなったのに対して結構弄っていたし、そういう環境で生きてきたから弟勇者の発言もデリカシーが無いのが多くなっているのではとか。

 

お母様の足取りを心配しているのだろうという発言も、お母様にとっては干渉と捉えられているというシーンがあった。解釈すれば、段差あるけど大丈夫かという心配の発言だったのに、お母様の解釈だと、自分が老化していることを指摘されているとなるとか。

 

僕も結構、都度都度指摘されるとか、心配の発言って結構苦手。ここはお母様と近くて、自分ができていないと言われている気がしてならない。脳科学的にも否定の発言、「○○しないように」みたいなのは悪影響らしいし、こういう発言をするときは「単なる確認だけど」という枕詞を付けた方が良いと気付く。

 

「○○やった?」みたいなことも、できるのが当たり前というニュアンスもあるし、できていないなら、こっちでやるけどというニュアンスもある。個人的には後者の方が圧倒的に多いし、こういう言い回しって特に優先順位が高い訳でもない。

 

言葉って、質量を持っていないのに脳にとっては世界に影響するという意味で、なかなか人生劇場を左右するものだ。

 

 

あと、満月さん一家、僕が初めに行ったときよりも団らんめいている。最初はお母様とお話するくらいだった。お父様も弟勇者もすぐ自室に引き込んでしまってあんまり話をする機会がなかった。僕も団らんの空気感の自由のなさが好きでは無かったから、実家で居るときはなるべく自室で自分の時間を伸びして過ごしたいもんで、引き上げるタイミングばかり見計らっていた。

 

満月さんの実家に行っているのは通算5回目くらいだと思うが、お父様も弟勇者も食卓に結構居座ってくれる時間が長くなっているような。

 

これを僕の功績だとするような世界観は無いのだが、読んでいる人からすれば、僕がここに参与したから満月さん一家の感じが変ったとなる可能性はある。僕個人の人生劇場においてはそんなこと知ったことではなく、単に、心地よい場に対しては心地良いと身体で表現しているだけ。それが社会的に良いかどうかなんて尚知ったことではない。

 

硯家でもこれができるようになれば大したもんだと想うが、姉も妹も母親の系譜だからなかなか大変。僕が違う基準で生きているとなると、どうなるのだろうな。

 

例えば、言葉も含め、生身の表現を自己存在の表現としていない。

 

弟勇者と先輩女子は結構似ていると思う。なんというか、視点が自己一点しか無いから、発言していても、最終的には自分の話になる。誰しも自分視点しかないけども、社会的視点を副次的に持っているから、自分以外を共感しながら調整するのだが、この両者、あんまりその視界が無いような。だからと言って好き嫌いも無い。いや、弟勇者はビールに付き合ってくれたから好き。

 

僕の一次的な視点だと、自己が認証されたいっていうのがとんとないから、主観的に生きるとずれてしまうのが分かっているもんで、なんとかやっている。知識は客観的な視点の発見であって、自分の存在の価値を上げる為のものではないという感覚が通じるのは、大学院に行って好き勝手研究している層だけだろうし。

 

本も好き勝手読んでいるもんで、読む度に解釈が変ってしまう。

村上作品で言えば、「ねじまき鳥クロニクル」の綿谷ノボルの得体のしれない闇と、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のやみくろの気持ち悪さは繋がっているよなとか。これは「アンダーグラウンド」にも繋がっているような。

 

どう繋がっているかというと、理屈に合っていないことを理屈と読み取ってしまう人の闇みたいなところ。

 

 

最後。

 

楽しんで生きているからこそ、ホメオスタシスが気になる。

仕事にあくせくするというか、出勤する前、「退場したいなぁ」とぽろっと独り言が出る。

 

これって、退場が悪いことだとする世界観だと精神が逃げていると解釈されるし、にじみ出たところで、心配されるから誰かに言ってはいけない

 

ただ、恒常性で考えれば、体ないし精神が全く変化しないという世界からの退場は究極の安定だから、それを求めるというのは割と自然な動きなのだろうなという気がしないでもない。

 

僕は恒常性より変化の方が楽しいから、天秤上他発的に退場が起こるまでは生きるのだが、究極の恒常性である退場を求める精神をある意味当たり前だよねという風に認めることができる他人が居れば、世の中の退場者は減るような気がしないでもない。

 

自己退場が悪いことだとする価値観って、キリスト教由来の古来からのものであるということは、そもそも禁止しないとそうなる人が多かったということだろうし、科学社会として宗教を超越したっぽくなっている世界でも、ここは改善されていないし。

 

個人的には改善する必要があるのかどうか不明だが、僕が生身で関わっている人についてはそういうことにはならないようにしたいところではある。今のところ父親が間接的に退場してしまった以来、そういう人は皆無。

 

かといって、退場させてしまったことに対して悔やむのも何か違うような気がしないでもない。主観的にはもちろん悲しいのは当たり前だが、だからといって、当人はそれを乗り越えて自分の世界で生きていくしかない。

 

恒常性に拠ることが弱いかというとこれも評価の仕方だけであって、個人的にはあんまり強弱では読んでいない。強いから変化できる場合も、弱いから変化できる場合もあるし、僕はどちらかというと弱い側だと読んでいる。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。