皮膚

 

 

「思うに、人は何に固執するかなのだ。」

 

 

数学的な思考を取り入れるのはまずいなと思いつつ、電子書籍で例の理学の漫画を買う。例によってポイント買い。面白いのだけど、なかなか闇深い学問だ。確かに思考は回る。

 

 

冷水シャワーを浴びている時に皮膚と世界の境界について考えた。

 

もともと世界と自分を分ける境目は皮膚だった。今も感覚としてはあるかもしれないけど、やや軸が違う。皮膚の内側に中身があるという意識はきっと意識という言葉がない時代でもあった。たぶん魂として。通信手段が発達していなかった時代では皮膚の接近ないし接触がその中身を開示することができる条件だったはず。皮膚感覚の拡張。これも今もあるのかもしれない。身内という言葉がこれを示している。これって、自分の内側に含まれているだけで、その中に居る個人を分かっているかどうかは問題ではない。

 

ただ、中身だけが1人歩きできるようになった昨今、中身の不定形性に気付いている人はどれだけいるだろう。人を知るために皮膚を裂いて中を見たところで分からないように、人を質問で解剖してもその人は分からない。

 

分かるという概念自体が、世界からそれを切り分けるだけだから、取り分けたことで認識できるようになるだけで、その中身自体には関心がない、は言い過ぎだけど、分けられただけで満足してしまうという傾向はあると思う。

 

僕としては、分けることは前提で、問題はその先にある。分解したところで何か分かるわけではないけど、もしかしたら理解できるかもしれないという意味で。

 

なんだかもう考察でも思索でもないような気がするけど、こういう言説ってなんて呼んだら良いのだろう。

 

「知覚力を磨く」はきっと買うだろうなとちょくちょく立ち読みしている。どれだけ知覚しているかというテストで、ある絵画を30秒眺めて、次のページの問題に答えましょうというのがあった。近くでは人が会話していて、遠目では何か人混みががやがやしている、建物らしき空間。ワインが四本並んでいて、みかんじゃないだろうけどオレンジ色のフルーツが8個載っていて、絵画の左上端っこに緑の靴を履いたブランコみたいなものに乗った人の足がちょろっと見えている。

 

Q1、ここは何処ですか。A、分かりません。社交場みたいなところらしいけど、見たことないしなと、あんまり正答できなかった。知覚というより解釈の話なような。見えていることは見えているのだけど、認識と結び付けるのが苦手。でも、気になる本。

 

現実世界においても、特に意識なく色んな景色は覚えているし、人から出る違和感とかも観察している。あぁなるほど、こういう意図があったのかとか。この視点で見るとねっとり話す後輩さんの意図がいちいち嫌らしく見えてしまう。僕にとって見るに耐えないなんてことはなく、この職場が緩いことにかまけてずるしているんちゃうかという偏見。僕自体はずるしている人なんてどうでも良い。僕がどう在るか。その分経験値が得られるし。まぁ緩い中でどうするかは人それぞれよな。

 

この文脈で職場を見ると、人それぞれ色んな仕事の仕方があるよなぁって観測される。中身は省略。

 

そうして、自分の知覚を想うと、好きな人に関してはあまり現実として見ないようにしているのだろうな。これってどういうメカニズムになっているのかは現状不明。次があれば指輪がはまっているかどうかくらいは観察しようとは思うけど、たぶんやらない。

 

おそらく、風景ではないモノだからまじまじ見ないというところがあるのかもしれない。固有の存在だから、自分の世界に含めないというか。決して内側だから見えないとかではないはず。分からないけど。ほんとはもっと留めたいのだとは思うが。

 

ともあれ、僕は自分の記憶力はほとんど信じていないから、再現されたものが真実だともしていない。今日もスーパーで卵を買おうと思ったら10個パックが売り切れていて、いや、あと1個あったはず、とギャンブル的に買わないようにした。たまたま当たっていたけど、過去の記憶ってそれくらいなもの。

 

だから、自分の過去語りで自分を上げる方向で語る人はなんと自分を信じているものだと見る。まぁ自己観を保つには過去を都合良くするのが一番手っ取り早い。明日も自分が同じことを想っているだろうかという感覚とは無縁で、今の為に過去もそうだったとしてしまう。だから反逆が起こるのだろうな。

 

自分の感情の構造分析なぞしたことがある人はそんなにいないだろうけど、感情って基本的に経験則からの反射みたいなものだから、自分の感情を信じるのもどうかと思う。

 

ここから、経験則とは関係ない感情が本物かというのも厳密には微妙だと思われる。良き感情が自分にとっての都合の良さから類型であれば、経験則でなくても良い。他人が楽しそうにしているのが嬉しいとか。

 

結局は、感情はあまり自分の根拠にならないということなのだけど、人って自他に厳密性を求めてないから、感情を本質に置くことで満足している。

 

厳密には、もちろん思考でもないし言葉でもなくて、空気感なのではないとかなっている。全部見た上で、全部取っ払ったもの。

 

ここまでかな。

 

では、おしまい。