水平線


言葉は遣うものではなく当てるもの。


村上さんもあと一回か。名前を盗む猿の話が最終章の前で、これって東京奇譚集の話まんまだったような。どうしたのだろう。何か意図があるのだろうか。うーんわからない。1人称単数というタイトルからすると、こういう世界もあるよという例示なのか。

個人的に、言葉を扱う猿が居る世界というのはありうることだと考える。あれほど自分の世界を発話で言語化できるのは人類でも何パーセントの領域だろうけど。感情とか共通の趣味を発話で言語化することはまぁまぁ簡単な反面、人に自分の世界を説明するのは難しい。

聞き手の存在が必須だけど。

発話が言語の扱いで一番拙いものというつもりはない。ただ、識字率は国によって諸々だけど、発話表現できる率って人間だったらほぼ100%に近いような。もちろん手話とかも含め。

これを考えるのは、発話でコミュケーションをする仕事をやっている上で、ここの洗練度って定型文を増やすことにしかないだろうなと思ってきているから。共感的感情を表現するためには声のトーンをこうしてとか、人の粗に突っ込んでくる人には毅然としてとか、不安を覚えそうな人に対しては安心感をもたらすようにゆっくり話すとか。

プライベートに無意識でやってきた発話法が可視化されているだけという気もする。この話がどうなるかというと、発話自体も、ネットでの言語のやり取りと同じくらい操作性があるものであってどちらがよりその人に近いかというものさしで測ると、どっちもどっちで精確ではないだろうなということ。これが絶望なのか希望なのかは人それぞれだけど、発話も一種の仮面だと思う。

印象論だけど、自分のことを考察する習慣がない人についてはその人の無意識がその人のほんとに一番近そう。感じたことを直にそうでしょうって問うたところで、当人には思い当たるところがないから発話する意味がない。むしろ怒り出す人もいるかも。

言葉は遣うものではなく当てるものだというのは、こういう意味もある。内的にほんとうにそう思ってなくても、そういう風に観測されるためにあてがうことができるのが言葉。虚言癖の人が虚構にのめり込むのも分からなくない。自分が言葉によってもともとの存在とは違うものになれるのだから。これは経験則だけど深層は闇の中。

自分の性格はこうなっていますというのも描写ではなく評価だと同じようなことにはなるか。

毎日弁当を作っていますは描写だけど、それに対してマメだとか偉いとかになるとどうか。

人が何をもって人を評価するかって、素朴に突き詰めていくとかなり難しい。道徳には逃げられないし。

事実と意見は分けるべき。

さておき。

そういえば、つぶやき場で、70歳の人プログラミングを教えてといってきたことが偉いみたいなフレーズに対して、人は一生向上していかないといけないという観念は宗教で、これが人を生きづらくさせているという意見があった。

端的に言うと、自意識過剰だという評価になる。なんで誰かが勝手にやっていることに対して自分もそうしないといけないと思ってしまうのかという人の心理の不思議。別に同じ信仰を強いられている訳ではないから、向上心があってすげーなという評価で良いはずなのに。

どうしても人は自分と連動したところでしか見られない人って宗教がどうのではなく日常でとても生きづらいと思うのだけど、こういう劣等感を持っている人ってほんと何処にでもいる。アイデンティティが相対的だから、たやすく自分が揺らいでしまうからなんだか攻撃的になる。

そもそも宗教の定義って、超自然的な存在を前提としているものであって言葉の当て方が間違っている。

そうして、もともとのつぶやきについて思うことは、まず自分で調べようかというというところ。対価がある教室の話であれば良いけど、自分が向上するために人を遣うって遣われる人はボランティアでしかない。もちろん教えたい欲求と教わりたい欲求が一致していれば問題ないけど、調べたり書籍を購入したりしてわかることをいちいち人に聞く人って、相手の時間を全く気にしていない=相手のことを自分と同じく生きている人と認識していないということになりそう。

あんまり細かく書くと剥き出しになるな。まぁずっと書いているから良いか。もともと人は自分と同じ水準では他人を認識できない。だから道徳律が必要になる。道徳の利点は特に中身の理由を考えなくても良いというところ。


やれやれ。(定型句)

あと考えたこと。

諸々の社会制度は時間という発明観念を前提としているのだろうなということ。お金もそう。物々交換で済んだ時代には今しかなかった。

システムの話はややこしいので聞きたい人が居れば話すけど、そんなに面白くはないと思うから省略。

何かの媒体に固定化された言葉も時間性を前提としている。何かの証明になるという意味。

僕は自分のこの日記を自己証明には当てていない。読んだ人がどう評価するかは僕とは関係ない。僕がこの現実世界から自主的に退場したとして、この日記のまとまりが見つけられて考察してくれる人が居たら面白い。長文の日記を毎日書いて世界に訴えていたとか、自分だったら救えたのにとか、好きに扱えば良いと思う。

ほんとのところはやはり非言語領域にあると思う。自分も他人も。


ここまで。

全世界を領域にしても届かないからこれを読んだ人が安らかでありますように。

おやすみなさい。