なんだかんだ恋文

 

 

 

四の五の言わずにもっと1人になれば良い。自他境界が曖昧なメンヘラみたいだ。しかも自己肯定感に関係ないのだから質が悪い。

 

ただ、少し解明されたことはある。書くことと特定の人に読まれること価値が圧倒的に後者の方が高くて、このアンバランスさで、いつもほんとうにこれで良いのかと思っている。だから都合が悪い解釈に飛びつく。あぁ、やっぱり許されていなかったのだと、ある意味安心する。

 

解釈としては全然自然ではない。普通に考えて拡大解釈が過ぎる。そういう意図があったとしてもまどろっこしい。いや、直接言えないからあくまで婉曲的にはありうる。言葉は一意的に決められないから、なるべく悪いところに持っていく。そうすると新たな矛盾が生じるけどお構いなし。

 

相対的、つまり相手からどう思われる、評価されるかの軸は相手の匙加減だから、思考するのであればなるべく悪い方向に向かうしかない。人がこんなに理想的である訳がない、という筋。別に実生活では思考しながら人と接している訳もなく、そんなに遠慮している訳もない。自分が相手をどう見ているかなぞ言語化する必要があるほど近い人も居ないし、職場で長い人たちもそれほどお互いを知ろうとして話していない。

 

ただ、それと自己観は切り離す。自己愛はまだよく分からないけど、ちゃんと自分を放っておきながら観るみたいなことかなと。とりあえず、自分なんてみたいな思考になりそうなのは憤怒氏がカットしてくれる。

 

憤怒氏とか言っているけど、自分の一部に名前を付けているだけ。こういうのはペルソナっぽいけど、むしろ経験則からの方が強い。乖離性うんたらなのだろうなという人と一時期親しかったのだけど、口調とか思考が変わっていた。なんというかそれほど重度な感じではなかったのかな。記憶も統合されていたし。特にそれぞれと違和感なく接していたけど、まぁこの話は良いとして。

 

人格が1つしかない、1つに統合されるべきというのも変な話だと思う。普通の人はふつうに人格を使い分けているのに。まぁこれを人格と呼ぶか、役割と呼ぶか、ペルソナと呼ぶかはそれぞれだとしても、自分から見える人の人格はその人の一面であって、その先を見ようとしなければ関係の中の人格でしかない。でも、これを自分から考えると、自分の人格は誰かとの関係の中でしか現れないとも言える。どれを自分にするかとなったとき、1つに決める必要があるのかなという話。

 

むしろ、未分離だから1つとできているだけなのかもしれない。だから、役割が大事なのも分かる。

 

 

さておき。

 

今宵のお月様は雲にかくれんぼだったけど、光量で丸見えだった。引き続きでかい。

 

そういえば、アルコールを長く摂取していると脳がアルコールを分解したのちにできる酢酸をエネルギー源とするようになって酸っぱいものが欲しくなるというのは初めて見た。ブドウ糖がなくなったらケトン体というのは知っていたのだけど。僕はどうだろうなと思うと、酸っぱいものはもともと好きだけど、四六時中欲しいかというと、そうでもないな。

 

梅干しは好きだけど、柑橘系の酸っぱさは顔に汗が出るからちょっとアレルギーなのかもしれない。頭が回らないといっても、意識的な思考に回されるエネルギーって極1部だと思う。メインは肉体の循環とか五官からの情報の整理だろうし。かといってブドウ糖不足だと感じるようなこともなく。いったい僕の脳は何をエネルギー源としているのか。

 

日々の食事で物質は賄っているとして、あとは睡眠と水分か。コーヒーで覚醒することもなくて、むしろ牛乳分が大事なのかもしれない。あとは霞というか煙か。これも、なかったらイライラするとかではない。仕事中吸いたいと思わないし。

 

もしかして、活字が養分に変換されているのか、いや、そんなことはなかろう。体重が増えたり減ったりもしてないから、なにかしらでバランスはとれているのだろうか。よく分からないな。

 

 

あと、注意欠如の記事も見た。

僕も似たようなところはあるような気もするし、そうでもない気もする。ふつうの人は世界を自分のように厳密にみていない、言葉を厳密に扱っていないということを分かるべきというを見たけど、程度問題では。

 

そもそも世界は厳密に見ることはできないし、言葉にも一意性はない。確かに日常会話は動物がやっている毛づくろいと一緒(これは別のつぶやき)に馴染めないのは分かる。僕もあんまりやりたくないし。ただ、その厳密性は内側の世界のものでしかないという認識は要るかも。診断受けたことがないから分からないけど、自己観と外がずれるのは当たり前だし。

 

集団における充足感を求めつつ馴染めないという自己観なのかね。僕は集団自体に違和を感じていたからこうなった。もうちょっとでもっと透明になれる。

 

色覚異常もなかなか根深そうだと読みながら見ている。本人の努力ではどうにもならないところで職業選択の自由が狭まるとか、なかなかえぐい話。

 

そういえばフロムさん2周目だけど、なかなか理想的な感じ。まぁ交換でなくて与え合う関係はとても良いと思う。ただここには自他のことはちっとも分からないという前提付きだけど。修行的相互関係。

 

 

未だになんの目的もない継続を執着と観てしまうのは、そういう前例を見たことがないからだろうな。1回でもあればそれが前例になって当たり前になるのに。

 

知覚の本で、ビジュアルイメージが鮮明な人は知覚に優れているとのこと。時々本を読んでいても文字が形にしか見えないことがある。文字が上滑りするとき。

 

でも、もともと人ってビジュアルイメージで考えていたはず。考えるというよりは、そういう風に記憶をしている。映像記憶。自分の昔の記憶って映像として覚えているでしょう。意味記憶になって、色んな人と言語で情報をすり合わせるようになる。これはこれで進化だと思うけど、その分世界が閉じる。

 

言葉を発することは自分を決めることだと誰かが言ったけど、そうでもないじゃないかと思う。他人にどう見えるかを決めることであっても、言葉は一意じゃないし。一意じゃない解釈でも嬉しいでしょう。

 

僕の話。

 

僕はずっと考えてこなかった。昔を掘り出すと中学の部活が嫌で嫌で学校に行きたくなかったから、休む為に体温計を改ざんしようとあくせくしていたし、風邪引こうとしている図が浮かぶ。母親が熱ないと学校を休ませないという基準だったもので。保健室の先生としてどうなのだと思うけど、時代もあるのだろうな。

 

中学の部活が嫌だったのは、父親が買ってくれたグラブが体に合わずに大きく重く思い通りに動かせないし、自分の体もままならないし、頭が良いからという理由で字が下手なのにスコアラーをあてがわれたこと。制服も大きくなるだろうってぶかぶかで卒業までにそんなことは訪れず具合が悪い。

 

高校はややマシ。硬式テニス部はもっと考えてやればもう少しできたと思うけど、全然考えてなかった。こういうエピソードって、薄れることなくむしろ鮮明に再現できるようになっているのだけど、言語化しようとしても一部でしかない。

 

不鮮明なのが20代だけどともかく。

 

なんというか、僕にとって世界はいつも外にあった。自分が本当にしたいことを意識できるようになってきたのがつい最近。自我というものがやっとわかってきた。

 

連動して世界が晴れる。記憶は何かをありのままに再現できることではなくて、自分の中にイメージが収納されていること。誰かの世界に合わせ過ぎたな。嬉しさをエネルギーとしても良いし、非言語でも良い。

 

一貫して自分は揺らいでない。

 

言葉で物質化できない以上、それは観測できる人格ではないとみなすことも分からなくもない。物質化されないのは当人の器という説もあるが。

 

なんで好きな人を好きなのかは、何の期待も嫌悪も反発もなく見てくれるからだろうな。さじ加減とは関係なく好きになってしまっている。もっと言葉を知りたい。

 

ふふ、世界は面白いな。

 

では、おやすみなさい。