様式美

 

 

 

良く寝た一日。筋肉痛かと思ったけどならなかった。お風呂にきちんと浸かったからか、加齢により明日やってくるのか、あれくらいの方向距離ではまだなんとかなるのか。

 

どうでも良いけど、昨日の言葉遣い若干緩んでいたな。よほど楽しかったのだろう。

 

さておき。

 

なんだか自分が歪だという違和感について考えている。別にネガティブということではなく、単なる疑問。

 

人格にモデルがあるという話の続き。人格には環境要因と遺伝要因あるとされているし、まぁそれはそれとして。よほど突飛な環境でなければ人格の形成過程におそらくいくつか類型ができるのだと思う。外向的とか内向的な具体的な人格を観て、遺伝要因からどの類型であれば自分が生き延びやすいのかみたいな過程があるのではとの推論。自他が分かれたのはいつかなんて遡り切れないけど。そうして、人格のモデルケースもこうはならないという反面教師みたいな面もあるだろうし、一概には言えない。

 

でも、成長していくともはやこの素の人格論ってあんまり問題にはならない。中身がどうあろうが、人は他人の行動様式をその人の人格、もっとマイルドに言えば性格とみなすから。自分の性格が本来こうだと認識していても、それが行動様式になっていないのであれば、社会的には行動様式の方が正しい。例えば待ち合わせに遅刻してくる人とは付き合いを控えた方が良いという文脈がこれ。仮に内部的な人格としてほんとに大事に想っていたとしても、遅刻するような行動様式の人は相手に重きをおいていないとみなす。まぁ確かに時間がもったいないという意味ではとても経済的に合理的なものさしだ。

 

これって行動様式からその人の中身を逆算して判断することで、ここでいう性格は社会的な類型的な人の性向みたいなことでしかない。誰かを言語化するときにどう語るかのパターン。僕は真面目だとかマメだとか優しいとは言われてきたけど、別に嬉しくもなんともない。「月の人」という評価の方がよほど見ている。

 

そうして、行動様式が自分の源流の現実化かどうかとなると、これも階層的だ。行動様式のほとんどは訓練でなんとかなる。習慣的行為がそれだし、肉体はある程度継続すれば適応してくれるし。だから、僕はこれをもって人だとはあまり捉えない。無意識で出るしぐさとかなら、だけどこれは行動様式の話ではない。行動様式でいうならあくまで自分と行動が一致しているかどうかくらいのことで、人がどうのではないような。

 

遅刻しないで見ても、実際に相手の時間を尊重していると尊重はしていないけど何らかの対価のためにそう見せると尊重とは関係なく時間は守っているとかいろんな人格が混じっているし、一意には捉えられない。

 

フロムさんの本で、現代の価値観は公平が前提になっているというのを見て、確かに僕も公平に寄っていたなと思った。「あなたが与えてくれる限り、相応のものをあなたに返します」みたいなこと。つまり、自分が与えるということは対価があるという期待が生じるということ。とても分かり易いし、民法もそういう価値観でルールができている。ただ、無形の対価みたいなまどろっこしいものはなく単に法律上の利害の公平だから良き。

 

今はこの公平観はすげー不自由だと認識を改めている。好意が返って来るという下心がないと好意が表せないこととか、好意を受けたから好意を返すとかめんどくさ過ぎる。もちろん現実世界でこの行動様式で過ごしたら面倒になるからセーブしているけど。単に好意を評したいだけであり、相手にも好意があるのであれば勝手に評してくれればよい。別に情けは人の為ならずみたいな、いずれ自分に返って来るとかも知らん。

 

あと、人には思考様式がある。僕としてはこちらの方が人っぽい感じ。世界において何がどう見えるかという「解像度と焦点距離」(良い表現だから好きな人のつぶやきから引用)も含まれる。何についてどう考えるかが本筋のものだけど、そもそも思考が当人にとって何なのかということ。

 

何かを選択するため、ないし自分がいかに正しかったかを定める合理的手段がほとんどかなと思われる。自分がしたこと、しなかったことににはいくらでも理屈をつけられるけど、することについて理由はつけられない。要は、自分と思考は別物だとする様式。

 

僕の思考様式は無意識の後追い的言語化みたいな感じだから、言葉にできているから考えているとはならない。行動様式との組み合わせで言えば、論理的に整然と自分の思考を語れる人は考えている人とみなされるけど、これもきっとやろうとすれば訓練でなんとかなる話。

 

無意識偏重なのは、昨日の無印の下りがきっかけで、自分が物事を判断したり観る時には無意識のデータベースが世界の比重を決めているのだろうなという雑考から。AIが人と猿を識別できないみたいな話が知覚の本にあって、データ量が違うのももちろんだけど、情報の重みを決めていることが強いのだろうなと。認識には元データが必要だけど、無意識に今まで見てきた映像の全部が収納されていると考えるのは現実的ではなくて、自分にとって重要なものか些末なものを振り分けて、重要なものが目に入るように調整している。他人を観る時も同じ。意識で調整は可能だと思うけど、そこまでする意味があるのか。

 

あと、思想様式というのもあるかもしれないけど、思想って、行動様式の前提になる考えだからもと人格に含まれそうだな。僕には思想様式はないかもしれない。行動様式の積み重ねの後付けでしかないし、行動するために思想は必要ない。

 

フロムさんの本は思想本だろう。という風に読むと、人の思想は時代・社会背景にむちゃくちゃ侵食されていると思う。でも、人一般がどうあるべきだみたいな壮大な考えは今のところ僕にはない。比較をやめようたって、そういう風に過ごせって強迫観念が拭えないだろうし。どこかには属していないと生きられないもんな。

 

そういえば、言葉は自分の一部だけど、文体になると表現物で何文字ならそうなるのかとも考えたな。140文字で自分の思考とか知覚をデフォルメできるか、そのデフォルメされた自分は自分なのか、そのやりとりは固有の個人としてなのか。

 

僕にとってはそれぞれまぁまぁ固有だけど、固有でかつ面白いかは別物。別に僕に面白いと思われなくてもその人の価値はそのままだから問題はないはず。

 

正当化するためではなく表現をする人が好きっぽい。

自分が正しくないことが前提の文章。文章を書くのは自分の世界が確立していて、それを説明するための手段という人が多すぎる。

 

もう少しだけ現実的可能性を加味して好きでいよう。

 

 

では、また明日。明日仕事すれば3連休である。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。