引きずりだし

 

 

今宵のお月様は圧倒的な存在観。思わず、「おー」って声が出る。

 

無為と有意の時間の比率を変えたら、無為に流れる時も贅沢だ。自分の寿命を何の意味も意志もなくなんて、なんとも命の無駄遣い。

 

今日は変なおじさんにひたすら追いかけられる夢を見た。何かぼそぼそと呟いていたけど覚えていない。逃げて逃げて、最終的に突き落としておじさんの肉体は滅ぶのだけど、透明な存在としてあらゆるところに在ることになった。僕には見えるけどおじさんには僕が見えないらしく永遠に僕を探すのだろうな。しかし、触れられなくなった以上実害もないし放っておくか、という結末。

 

病んでいる訳ではない。

 

 

ぼーっと過ごすことで、僕は僕の本質がなんとなく分かったと思ったら、昨日の日記でだいたい書いているという不思議。やはり、酔いは本質が発掘される。ほんとに泣いたもんな。(これは別の話)。

 

昨日立ち読みした時に、心は快楽主義で、文章を書いていることとそれをしようとしている意識の関係は脳科学的にも闇の中という話になった。言葉は書かれたら現実的な物質(誰にでも見られるという意味で)だけど、それを書こうとした自分の意識は物質ではない。ではどういうメカニズムで物質ではないものから物質が生まれるのか科学的にも説明できるすべはない、とのこと。

 

言葉は発話にせよ文章にせよ物質であるという定義は採っても良いな。この矛盾は意識が物質ではないというころからだけど、自分にとっては意識も物質みたいなものとしても良いような。だって言葉の物質性って、意味の取りようは主観的だし、意識も自分しか見えないという意味では一緒。

 

 

知覚の本は面白くなってきた。素材としては青と黒のドレスなのに、白とゴールドに見える人がいるというやつ。これは既知。白とゴールドに見えるときもあったなーと思い視点を転換してみたけど、無理だった。これって色覚障がいの一種なのではと思うけど、世界の色が気分によって変わるなんて普通だと思う。

 

著者の主張としては、人は外界に何か面白いものはないかという検索モードで世界を知覚しているから、「純粋に見る」ことができないとか。確かに見たいように見るというのは分かる。けど、そもそも世界は綺麗なものだと思っているし、別に期待もしてないから既知。僕が知りたいのは、期待をしていないのに焦点が絞られる対象について。確かに死角はどうしようもなくあって、何故死角になったのかも気になる。

 

何がどう見えるかと人格はセットだからそこをやすやすと譲って良いのかなとも思う。著者さんの人格もまぁまぁ自己主張強そうだ。こういう人格が見える本が好き。

 

僕の人格は言葉にはあんまり宿っていない。言葉は理性でもなんでもない。

 

の前に、新刊枠。ちらっと見て即決で買ったのだけど大当たり。おそらく「手」がテーマなのだと推測される。

 

1章は客観的には造形が良いけど、自己充足にはならない男の子の話。なんだか「イグアナの娘」を思い出す。僕はそこまで造形が良い訳ではないけど、期待されて期待外れだったという現象はいくつか経験しているから、よくも捉えているなぁって。容姿の造形はどうでも良くなっているけど、人からどう見えるかをちょっとは気にするようになった。顔は外交担当だし。

 

で、手の描写。静脈が浮き出ている50代女性の手が出てきたのだけど、僕の手を見たら、静脈が浮き出ている。骨ばっているのに色素が薄い。毛も薄い。僕は自分の「手」はそんなに好きではない。何故なら、指が太いから繊細な動きができないと思い込んでいたから。

 

確かにキーボードでどこがあたるのかとか、指短いなとか、気に食わないところはいっぱいある。歴史上好きだった手は本当に小さかった。

 

「手」を概念として考えてみる。

 

自分がどう生きているかの証左。僕は色んな生活をしてきて、自分の手の変遷を眺めてきた。例えば段ボール触るとか洗い物をする仕事だと水分が奪われる。連動して筋力とかも出てくるのだけど、要は、「手」は、その人の今が見えるもの。凄い手汗かいていたのもなくなったぁ。

 

今の反映で言えば語彙より分かりやすい。

 

僕の注視で言えば耳も気になるのだけど、耳フェチの話はまた今度。

 

 

手でいうと好きな人の手の画像がとても好きだ。何故好きかも分からないけど、触れたいなって思う。直に見た時にもやたらと綺麗だったのはこの目で見た。

 

手入れをしているかどうかはともかく、利己的な人は主観的な世界でしか生きていない。

 

 

で、僕と言葉の関係性。

 

自己表現できない自分が透明だと思っていた。本当は主張したいけど、言葉にできないから、匿名的世界で書いているのだって。

 

いやいやいや。

 

僕はどれだけ書いても言葉に自分を載せられない。言葉で考える正解の限界は分かったし、言葉が自分だと思っている人はどれくらい居るか。

 

読書感想文とか、文章で応える問題に答えられない自分で自分がないと思っていたけど、そんなことはなく、僕のほんとは言葉がないところに在って、この言語化は一部の紹介でしかないって分かった。

 

言葉と癒着しない自分。

 

言葉で考える限界は、言葉には意味が付与されているから、意味があると思い込めること。意味がないと言葉を発せられないなんて。自分の発話を考えれば嘘だと分かる。

 

僕が好きな人を好きなのは、

 

誰だって言葉で考えてはないという共通認識なのだけど、どうだろう。

 

これだけ自分を言葉で掘り出して、最終的に僕の人格は非言語なのだろうなと思えるこの器。自分にも期待していない。

 

おしまい。