ほんと

 

 

本日はチーズタッカルビを作ってみた。画像はいつものごく省略。そもそももともとがどういうものなのか知らないのだった。鍋に使った鶏もも肉が余っていて何かあるかとレシピを漁っていたら見つけただけ。調味料見て完成形の味は想像できたけど、実際に作ってみると、辛さが足りない気がする。

 

さておき。昨日の日記は自制し切れてなかったから編集した。そういう話だけど、そういうことではない感。まぁ話に出てくるということはだけど、きっと気分は悪いに違いない。人のことなんてどうでも良いはずなのにな。

 

 

さておき。

 

本日も規則正しい生活。朝は鍋のあまり食材でうどん。昼は納豆ご飯と白和え。

 

いつものスーパーが臨時休業だったから、散歩がてら歩くルートを変えた。北海道はもう雪景色らしいのに、こちらはまだ銀杏が真っ黄色に染まりきっていない。ほんわかした気温で歩くと少し暑くなるくらいである。綺麗ですねとか不謹慎なことは言わない。生活の雪の経験は僕にもあるし。まぁ雪かきまではいかないけれど。

 

いつもは通らないルートには個人経営っぽい好みの本屋さんがある。水とビールとチョコだけ買って一瞬寄ろうと思ったけど、なんとなくやめた。どんな会話ができたかという可能性的世界軸で楽しんだだけ。ただ、別の古書店には寄った。もしかしたら徒然草の続きがあるかもしれないと思ったのだけど、残念ながらなかった。しかし、森さんの見たことがないハードカバーが100円で売られているのを発見した。まさに掘り出し物。

 

まさか線引きもついているとは。普通の小説に線を引いているのは初めて。古典的小説とか専門書だと見かけるけど、「客観的価値」という単語に何重も鉛筆でマルがついていて、一体何があったのだと想う。話としては、無気力な大学生が省エネのために就職してという感じだけど、そもそもこの森さんの頭の中がまぁまぁおかしいから、どんなストーリーでも面白い。地の文というより会話が良い。会話が良いと言えば村上さんもだけど。

 

想うというのは、対象に届くかどうかは全く関係ない。

 

そういえば、キネマズのスクラップ・アンド・ビルドのようつべ動画を観た。再生数のうちの4・5回は僕の再生数が入っている。好きな人が撮影したということでも興味本位で見たけれど、歌詞が良かった。

 

ここで、僕の考察順序。恋と目利きはなんだか移入してしまう、のはともかく。このタイトルってなんだろうなって、拙い英語力とグーグル先生で考える。破壊と創造をまず思い付き、ただ歌詞にあるピースで、パズルと連想し、崩すことと組み立てることなのかなと考える。それと恋の歌詞がどう連動するかはよく分からないけど、目利きということは、自分が組み立ててきたかけらの集大成としての自分の視点みたいなことなのかな(今思い付いた)。

 

そうして、最終的にこのタイトルがオリジナルなものではなく、崩落しかけた建物を建て替える行政上の措置みたいなところまで調べた。で、この前日記に書いた賽の河原との共時性

 

考える食指が向かう対象はランダムだから、これが現れるのが楽しい。たとえ好きな人が撮影したという前提があったとしてもそれだけで楽しいとはならないし。そこまで好みを依存していない。他の歌も読んでみようかな。

 

 

あぁ、常々思っているけど、僕のいう「面白い」ってきっと一般的語用からはずれているなという話。自発的にしている自分に対してでもないし、受動的な快楽でもないし、単に世界がそう見えたことに過ぎない。

 

人の笑顔は良いなって思うけど、面白いとは違うとし、目的とするものでもない。楽しんでいそうな集団を見てもあんまり面白そうじゃないなって見てしまう。

 

で、またフロムさんがやってくるのだけど、快楽と喜びは全然違うという話をしていた。この違いは明快で、「それを通して自分が変化するか」。個人的にめちゃくちゃスッキリする定義。

 

例えば、美味しいは喜びだけど満福は快楽。僕がまぐあいに特になんとも思わなかったのは、最初にしたときに、前後で驚くほど自分が変化しなかったこと。全然近くならない。

 

まぁ良いとして。

 

僕は、面白いを自分の変化と捉えているから、拘束時間の中とか外とか関係ない。さすがに免許更新の拘束時間に面白さを見出すとかはなかなか難しいけど、仕事時間であればいくらでも変化できる素地がある。変化には代償が必要だけど、ここでの代償って、自分が今まで当然としていた世界だから自分自身なのだけど、僕はこれを財産と思っていないし。

 

変化しない自分の手綱を握っているのは自意識ではないから、どれだけ変化したってとるに足らない。言語化できる世界でもない。

 

ただ、世界を拡げる、ないし発見するためには言葉は必要。

 

無意識は名詞が無くても世界を採り入れているだろうけど、意識はそこまで賢くないから、世界を観るためには言葉が不可欠。非言語を観るというのは言語が前提だし。ただ、難しいのは、語彙が豊富な人でも、人の言葉尻を指摘することに傾注している狭いところに生きていることもある。

 

なんとなく、人は時間の個体差とか、人の価値は個別的であることを無意識では把握しているのだろうなって思う。僕より遥かに賢く生きている。ただ、この曖昧な世界観には含まれたくない。ちゃんと自分を見つけてから出直してくださいという感じ。

 

快楽的人生観って、自分を決めて世界は受動的であるということなのだろうな。

 

フロムさんは、自分を突き詰めていくと世界の創造主たる自分に出会うと言っているから、やっぱり世界は主観じゃんって突っ込む。

 

知覚の本も、客観的な実際的な世界があって、そこから何を観るかを決めるのが主観的知覚らしい。

 

いや、なんでそもそも世界が客観的である必要があるんですか。

 

自分が知覚できるとか思いを及ぼせる外に世界を設定する意味というか目的は何処にあるのか僕にはよく分からない。関係の中で誰かが見ている世界というくらいなら分かるけど、視点が違えば見える世界が違うのは当たり前なのだけど。

 

では、僕がどういう風に個人として見るのか。

 

僕は親しかろうが離れてようが自分を変化する質だから良いとして。僕を通して変化する人はとても気になる。というのが、好きな人のことが他人にならない証左っぽい。別に僕色に変化させるとかではなく、採り入れるという意味。

 

 

影響を受け合わない関係なぞ死んだものに等しいし、ほとんどそういう世界だと思っているけど、違う感じがしている。

 

だから、他人事として読んでいるのと皮膚感が全然違う。

 

行動規範を変化させるのはなかなかレベル高いけど、思想規範でもそう。

 

ここがちゃんと観られていて好きだ。

 

会っても触ってなくても関係を感じてしまう。好意とか必要か全く言葉は無いのに。

 

1回この文脈で聞いてみよう。

 

 

では、おやすみなさい。