自制

 

 

 

棚から牡丹餅の5連休のテンションと酔いのブレンドでまた変な言葉を投げている。由緒正しいではなく、規則正しいだろう。稀に中核の語彙が抜ける時がある。あと僕の言葉が変ではなかったときはない。

 

文意としてはさっさと断って下さいなのだけど、どう断ろうかとあわあわしている(これは僕に限らず、誘いに対するエネルギー消費が半端ないと思われるため)という世界線的想像もあるし、こっちの方が現実的。ただ、そうでもない気もする。言語化すると嘘っぽくなるに違いない、感じ。僕としても現実的デートはただの余剰だから、それほど重視している訳ではない。このままでも大丈夫なのかが気になるから、物理的な好きな人はどうなのだろうというのを見ておかないという気分なだけ。煩わしいのかどうか。一切返信しないというのも1つの自発的選択肢だから、何の問題もない。

 

そう、相手にとって問題がないかどうかばかりが気になる。

対応を変える準備はあるのだけど、なんか違う気がするから気になるのか。好きとは別に。

 

肌ざわりには自信がありますとか投げなくて良かった。

 

さておき。

 

人は外から拘束されていないと怠惰になるという観念は幻想だとフロムさんは言っているけど、なかなか難しい。

 

食べた食器を下げるのが億劫だと思ったら、日常生活の方だと他に何かしながらだから、食器を下げる為だけに動くのが勿体ないのだろうなと。仕事日は自由に使える時間があまりないから、自分の行動に段取りが付けやすい。

 

でも、習慣ではない。習慣ってそれがずれたときに気持ち悪くなることと定義した上で。荷物が届いた月曜日。19時から21時の時間指定で、ほんとは19時半にはお風呂に入るつもりだったけど来ない。だったら、お風呂上りでやっているアイロンがけとか、米を研ぐとか前倒しで段取りするかとなり、やっていたら届いた。LINEが面倒だったから母親に荷物が届いたことを連絡したのだけど、自分の声がやたらと穏やかだった。

 

ここで考察したのは、僕は自分の生活を施行のショートカットとしていないから世界に対して穏やかでありうるのだろうなということ。別に弁当を作れない日があっても自分だし、飲み過ぎるということは、1人で居る限りないな。場が詰まらないと飲んで誤魔化す癖はあった。

 

そうして、5連休初日は、もっとちゃんとできるという結論だけど、それなりに怠惰にはしなかった。雑炊は美味しかったし、無印にも出かけた。インナーを薄着にすればもう完全冬用のアウターでちょうど良い。ただ背負うバッグの色味の量が全然少なくて買うのは断念。やっぱり中心行かないと行けないか。まだ4日ある。

 

本屋に寄ってやっとこさ小六法を購入。他にも満遍なく見たけれど、講談社学術文庫徒然草もないし、個の本屋さんと相性悪くなったなという感じ。プログラミングは追加してもよく分からないから既存の本でよろしかろうとなった。僕としては、青空文庫のデータベースと僕の読書傾向を学習してもらい、今日はこんな気分と指示したら、最適な本を提示してくれるAIだけど、こんなの人間でも無理だろう。卓越した司書さんならあるいは。

 

帰ってきて、そこそこ法律書読んで、ご飯を作る。メインはお刺身を買ったから副菜。届いた荷物の中にあったほうれん草×鍋で残った豆腐・人参で白和え。食材が大量にあるからどんどん消化しないといけない。手抜き料理の時にハンバーグという言説を見かけたけど、僕より料理にかける時間のリソースが多いのだろうなと思う。調理時間含め20分では作れないもの。ひき肉が安い日は炒めるだけ。

 

要は、僕は料理にそんなに重きを置けてないからこそ、ここまできるようになったということ。ほんと面倒な人格だ。別に自発性があったわけでもない。

 

なんとなく、意志とか情熱とか欲求とか希望とか野望とか、現実的な行動に対して精神的なカロリーがあるという説は採れなくなってきている。ほんとうにそれをしたとすれば、それは意志より前にあったことでしょうという意味で。

 

エレベーターのボタンを押す時に最初に稼働する筋肉は反対側のふくらはぎという情報を見て、体を動かすのが一番脳を動かすことなのだろうと思う。脳の活動ってまずは内臓の動きの統制で、次に筋肉の制御で、その後に上澄みとしての意識がある。

 

何を人とするかで知覚が変わるらしいけど、自分が収集したその人の知識で他人を知覚するのであれば、人も自分もそんなに人ではないような気がする。自分の世界に含まれた他人。

 

知識とは何ぞや。

 

何かを判断するときに前提とできる概念だとする。ある意味財産なのだろうな。

 

断捨離でもないけど、素朴な僕はこういう知識はほとんどなくなっている。あらゆる情報は選択肢でしかなくて、自分の正しさの補強にはならない。

 

自分は勝手にあるものでしかない。意識的にどれだけ自分を考えたとしても、無意識領域の方が広いし深いし。これが無意識にできるふるまいになっている。言葉に価値を置くものさしも意識偏重だから、自分の無意識には向いていない。

 

意識的な言語的な自分が自分であるという観念はとてもわかりやすくて良いのだけど、人間関係は結局非言語だと思うとなんとも。

 

 

自分は開示しないのに、観測するだけというのはとても不公平なのだけど、勝手に開示しているという前提があるから観測できる。ほんと他人事なのだなって。

 

これはもちろん好きな人も含まれる観測で、自分事にならない限り、人を情報でしか見られない感覚。これってほとんどの現実で良いのだろうな。

 

好きな人もそういう僕にとってただの一般人であれば良かったのだけど、まだ乖離するにはメッセージが足りないか。

 

好きだった人の言葉って僕は居なかったよね。当人にとっての僕しか居なかった。

 (どうだろう)

 

では、おやすみなさい。