解釈の筋
発見的月曜日。
昨日の、「してくれる」云々の話、ある意味当然のことだな。時系列の時々ではパートナーは1人しか要らない(複数の人も居るだろうが)、人生通してそのロールに代替性がなければ、世の中は大変悲しくなるだろう。あんまり考えると常識(左脳的世界観)が歪む。
さておき。
夢は当たり障りのないものだったらしく、全然覚えていない。日曜よりはよく眠れたと思う。その理由を分析するに、①カモミールが無くなっていたのに気付いていたのに補充をしなくて、何かないかと探したらアールグレイがあり、安眠作用が強かった。②土日あまり深い睡眠ができなかったことによる疲れ。③ふかふかした気分で寝たから。①は検証できそうだが、他は難しそう。
感情として、巡り合わせの悪さにいじけているのを見つけた。会って何かがあるとは思わなくて、見かけるだけで十分だとしても許されないのか、がっくし。みたいな。別にこれが何か現実化されることはないから放っておいて良い。巡り合わせの悪さは僕の奥の不純な動機によるものかもしれないし、仕方がないこと。
出勤時、ピンクの絨毯はまだまだポテンシャルがあったらしい。ピンクの比率がさらに増えている。どこまで増えるのだったか。他の出勤している人もちらちら見ている。出勤しながら思ったことはフカフカした気分に係るのだが、ちょっと置いておく。
左脳と右脳について考えているのはメディアの話による。ざっくりイメージだが、右脳的世界はわりと固有のものであり独立している。狩りのノウハウは言語情報での伝達より前に個々が体で覚えたものであり、その世界観は言語化にあまり馴染まないから、共有がされにくく、なんというか精鋭感がある。天才は否応なくこの世界観を世界全体に押し付けることができて、それが芸術なのかも。
そういえば、劇評が公開されていたが他の人の肩書きがとても仰々しく、僕の「会社員」の凡庸さにわらける。場違い感が凄い。メディアの話で、今の若い人(といっても書かれた時代はちょっと前)はジョブではなくロールを求めているというのがあり、どちらがどうなのだろう。社会的役割を担うという意味では似ている気がするが、おそらく歯車からより人になるイメージなのかな。分からない。僕もいつかロールを求めるようになるのだろうか。
右脳左脳の続きで、利き目とどちらの脳が優位なのかって関連するのかと思い付き調べた。利き手と利き脳の関連はなんとなくよく聞くし。ダーツやってなかったら自分の利き目なぞ知ることはなかっただろうが、不便だったから残っている。利き目が左で利き手が右だと的がずれる。
利き目が左で利き手が右の人は(何調べか分からないが)人口の16%で、環境の変化や細かいことに良く気付くが全体を見落としがちになるとか。当たっているかどうかはともかく、僕が文字を意味というよりイメージで捉えているというのは、右脳で読んでいるのからかと思う。文字の見え方とか他の人と擦り合わす機会がないから全体的にどうなのかは知らないが。論理を追うのが苦手なのもきっとそうで、文字を文字のまま収納せずに、小説なら心象風景に、専門書なら概念に変換して読んでいるような感じ。
直感型だが芸術肌ではないという微妙さがなんとも僕っぽい。
インプットは固有だが、アウトプットは既存の世界に倣う。
そうして、左脳的世界観だが、プラトンが書いていた、言葉は外から自分の中を規定するみたいなところにある。言葉は記述ではく想起の道具だみたいな話。だから箱とか枠みたいなイメージになる。素朴な僕はここまできちっと言葉を捉えていなくて、書いたからここに存在するだけであり、書くために言葉を準備している訳ではない。自分が思い付いたことをメモするみたいなこともしておらず、もっとぼやっとした想念みたいなものを現実化させているだけ。言語化が難しいな。
まぁ左脳的世界観は、人数が増えれば増えるほど力を持つというか共有のために図が必須ということで、なんというかある情報を言葉で知っていればそれ以上考えなくて良いという思考のショートカットになり、そうすると、いやこの話も難しいな。
少し仕事の話。
トイレからの帰り、席が離れたあまり話したことがない先輩に声をかけられた。「席が変わってしんどくないですか。前で雑談されていて気になりませんか。」みたいな。言われてみて考えたが、全然気にならないな。むしろ参加しなくて良い雑談は聞いていてとても楽である。本日は公開されているだろうアニメ映画の話やら、昔一緒に食べたパスタのグラム数の話やらをしていた。これが仲良しか。気は散らないがよくもまぁここまで発話が続くものかとは思っている。
最後にふかふかの話。左脳的に考えると悲しいというか寂しいとか苦しい感じになる。これはまぁそうである。ただ、それとは別に右脳的に考えると関係は固有であり、なんというか犬っぽい感じを覚える。平和な犬。僕に対して何もしようとしなくて良いとか何故思い付いたか分からないフレーズを思い浮かべながら寝る。
そうして、出勤時とかお弁当を食べているときに思い付いた解釈が面白く内心でくつくつ笑う。顔に出ていてもこのご時世だから気付かれない。
お酒をやめても文章を書いているのは、お酒を続けていると(健康的な意味で)ここは破綻するから、なるべく維持していくためにこうなった。ここはとても心地良い。あと、より世界をちゃんと見ようとしていることも、この人の存在との出会いを自分にとってより良きものにしようとしているのかもしれない。特に何かしてもらう可能性に価値を置くのではなく、この人によって良い方向に変化することで存在の価値を認めるということ。自己完結的だし、相手からどう想われているかも無関係で、僕にとってそこまでの現実的価値があるのが大事。どう想われているかは現実化に影響を及ぼすが。
2階の奥の蛍光灯がちかちかしていた。これがいわゆる「まどいせん」か。
では、ここまで。
あっちには貼らなくて良いか。昨日のも貼っていない。
おやすみなさい。
良い夢を。