遭難

 

 

二度寝前に隣人が洗濯機を回し始めて、うとうとしていたら反対側の友人がベランダで怒り出す夢を見た。ここじゃないよー1つ飛ばしだよーとか思いながら住んでいるところがいつの間にか要塞のようになって道路を挟んだ向かい側は崖下の海で、知らない人がたくさん遊んでいた。

 

二度寝は半覚醒状態だから、夢が混沌としている。

 

起きたあと、演劇の会場、最寄り駅はJRなのになんで移動手段に高速バスが入って来ているのだろうと違和感が芽生え、もう一度調べる。1番早い手段に飛行機が入ってきたのはびっくりしたが、JRだけの道筋もあった。昨日は大雨で止まってとかなのかな。

 

片道4時間程らしい。これだったら観に行こうと思っている日であれば十分帰って来られる。地図を眺めていると、城崎温泉駅から会場まで2時間弱の徒歩ルートがある。2時間くらいであれば岡山の鬼ノ城ルートより遥かに現実的(?)。

 

強行日程だと、当日始発近くに出発し、2時間の徒歩ルートを経て海岸でしばらくぼーっとしたあと観劇し直帰する。しかし、夜の海岸を散歩するのも捨てがたい。そうなると宿は温泉街ではなく海岸線沿いで取り、1日目は観劇を重視。夜は散歩して宿で日記を書いて(書かなくても良い)寝る。2日目に、2時間目の徒歩ルートを逆からゆっくり歩いて、余力があれば外湯に入ってから帰る。どっちも楽しいに違いない。志賀直哉がノーコンでカエルをあやめてしまった川の道はこの辺りにあるのかな。

 

ちなみに花火を見た海岸は、地理的にもっと有力な駅があった。花火大会があることも確認済み。どちらかといえば初めての場所に自分で足跡を付けたい感じだから、今回行くだろう駅は未知であった方が楽しい。

 

楽天トラベルで宿もちょくちょく見ているが、どこもいっぱいということはなさそう。

今宵時点では夜のひっそりとした海岸をビール片手に散歩したい衝動が強い。伊勢もこんな感じでよかった。森も川も海も好き。北側の海も南側の海も良い。まぁ地元で一番近かったのは瀬戸内海だが、これも良き。

 

さておき。

 

昨日の日記を書いたあとどきどきして寝にくかった。微妙な話題について真面目に素朴で書いた時の作用として反発とか相容れないという理由で離れていく分には良いけれど、誰かの地雷を踏み抜いてしまうのは嫌だなぁって。対話で踏んでしまえば爆発の影響が直に返って来るが、文章だったら一方的だし。

 

まぁ読み返してみると、もともとの文意からは離れているしたぶん意味不明でしかないから杞憂でしかないのだが。書いてみたけど、もともとの文意って、恵まれている人がそういう思想を持っているのがけしからんみたいなのが根底にあるのであれば、別に命の軽視の話ではないし、僕は何も言えない。僕もけしからん(だろう)思想が満載に搭載されていると思われるから、人の思想上の文句なぞ口が裂けても言えない。母親のは文句というより、ただの観察です。

 

命の軽視・重視って、対象との距離が近いか遠いかの話っぽいから、僕は首を突っ込まないでおこうと思った。昨日は勝手に熱が下がりますようにとか祈るような奴だし。

 

ともあれ。

 

もっと純粋に人の命についての考察。

外からの話題で書くと意味不明になってしまうのは分かった。

 

言葉によって人の地雷を踏み抜いたら嫌だなぁという感覚は、人の命の中に「言葉によって毀損されうる人格」を含めているからだろうなと想う。毀損したかどうかも証明できないのに、刑法よりも罪の認定が広い。だから対人で言葉としての心をあんまり開けないのだろうなという感じ。

 

ここで、人の命って何次元だろうなという命題が浮かんだ。

直感的には0次元だろうなと感じたのだが、これだけだとやはり意味不明だから、道筋を発見していかなくてはならない。

 

まず、属性とか種で捉えたときの人の命は、現実の空間を占めるものとしての3次元よな。これこれの属性を持った人の価値が云々とかのときは、生命活動をしているその瞬間の抽象的な人が対象になっている。その中の個別の人が前提になっているとしても属性として括るのであれば、他の個性はないものとしての人。これって動物に対するものさしと一緒。

 

要は、生命活動をしている物体としての命。これは刑法でいう殺人罪の客体としての人とも同じ。この文脈で植物とか虫はどうなるのだろうと思うが、おそらく命とは捉えられない。

 

この三次元で捉えるのが一番簡便。これだと同じ属性で括られた自分と他人は同一化されて温かいはず。1人ではないから。

 

で、次。時間という変数が入った4次元。

人生という過去・未来を含めた命は、殺人罪が保護しようとしている命と同じ。客体と専門用語でいう保護法益が違うのは、客体は具体的な個体だが、保護すべきなのはどこからどこまでの命なのかというところ。胎児は殺人罪では人ではないし、脳死状態はグレー。生まれてきて年を取って命が尽きる間のどこからどこまでが人と言えるのかという話。

 

もちろん、これはあくまで社会的な、外から見たときの最大公約数みたいな人の命であって、分かり易いが全てではない。

 

まぁここまでの人を尊重できないのはこの文明社会では問題外のように思われるが、今日雑談を聞いていると、このご時世の危機感がもっと上がるためには若手の芸人が退場したら良いみたいな声が聞こえてくる。こわやこわやなのだが、ニュースを見続けていると抽象的な人の死ってあり触れているから、実感からは離れていくのだろうな。

 

で、次の好き嫌いとか思想とかの精神性の次元。これを一括りにして良いのかというのは微妙で、時間に含まれることなのかもしれない。好き嫌いも思想もだいたいは、人生上でどう過ごしたかによりけりだから。経験則から離れた好き嫌いとか思想とかになってくると次元は増える。

 

ここで5次元。

感情とか、思考とかも入れていくと、次元はどんどん増えていく訳だが、これを単なる三次元ないし4次元に含まれる情報に過ぎないと一元化してしまうと、やはり人の命は属性上のものになる。

 

ここまで考えたとき、結局は自分の命をどの次元で捉えているかによって人の命も決まるのだろうなとなった。ニュースで流れる事件、事故、天災に心を痛めるのは良心的な人だとは思うが、目に入るものが命という視点は否めない。三次元だよなーって。

 

いや、別に良い。文句ではないです。

 

ただ、僕はそういう目に入った範囲だけで心を痛めるのは、なんだかなぁという感じがある。

というのをやんわり昨日書いているはず。

 

僕としては、人の本質は変数(次元)では表現できないところに存在していると感じていて、僕の命も価値とかそういうところにはない。感情でも思想でも精神でもない。

 

変数を全部取っ払っても人は残るでしょう。

残らんのかな。

 

0次元というのはこんな言語化不可能な存在性で、僕はそういう部分を見よる。

 

特別ではなく固有な感じなのだが言語で伝えられるような感覚ではないから、難しい。

エックハルトさんの文章読んでここで居て良いのかと想えた。自分すら自分にとってから離れること。

 

もちろん、僕も人間だから、愛着としての命の重さは分かるし流される。1回でも現実で接してしまえば、だいぶ存在が重たくなる。ただ、この重さは、0次元の命を見られるようになるわけではない。1番長く過ごした人が残っているのは、僕次第でそういう関係が構築できたかもしれないというところ。一般的価値観に流され過ぎた。

 

いや、別に自分を0次元で捉えた方が良いなんてことはない。器によりけりだと思うし、器が壊れている人しか無理だろうし。

 

そういえば、1つ命題。

自分が人に覚えていられたいか否か。

 

僕は関係しているときは、その関係の相手が自分のことを覚えられることに価値を置いていたから、僕に価値を置いておるのであれば僕のことも覚えているのだろうというモノサシでやってみたことがある。とても悪手だった。

 

なにせ、僕が自分が言ったこととかプロフィールとか覚えて貰っていることに評価点を加えられない。素朴では圧倒的に忘れられたいというモノサシがある。

 

これはおそらく人の中に重たさを残さなくても僕は僕で在るし、残っていることに意味とか目的はないよなというところ。

 

忘れられたくないという感覚がよく分からないんだよな。

僕が一方的に覚えているのは、相手の三次元とはあんまり関係ない。だって、僕が覚えているその人と、離れた後のその人自身はきっとずれている。

 

ずれないのであれば、残して欲しいというのも分かるが、ずれなくなるのは退場した後のことで、そんなところまで気にしてどうするのだという感じ。

 

これも自分の存在をどの次元で捉えているのかの流れなのかな。

 

しかしながら、この素朴を現実化したら、相手に対して興味がないと見られうるか、津々と見られるか、なかなか難しい。歓心を買いたいから情報を保持している訳でもないし、歓心のために保持している情報を開示するということはない。

 

 

はい、ちゃんとした素朴の命の話でした。

 

おしまい。

 

良い夢を。

 

おやすみなさい。