架空

 

 

 

本日のお弁当の映えはなかなかだったのだが、雨のため画像無し。鶏モモひき肉と油抜きしてちぎった厚揚げがメインで、人参とピーマンと一緒に炒め、ケッチャプとお酢で味付けしたもの。副菜はもやしとワカメのナムル。

 

明日のもなかなか。なんとなく体に良さそうなものという感じで、副菜は長芋のわさび醤油、昆布茶、ほんだし、砂糖で味付けした浅漬け。メインはひき肉の残りと油抜き不要の厚揚げと空心菜ともやしを炒め、醤油、甜麺醤コチュジャンなどで味付けした黒っぽい炒めもの。

 

たぶん明日も雨だろうから、証拠画像は撮れないだろうな。

 

さておき。

 

架空の思い出と、夢はどちら現実に近いだろう。具体的にイメージがされ過ぎた未来の予定は中間のような感じ。

 

夢は、男性が男性を逆襲のために凌辱するシーン。どちらも僕ではないが、なぜかされる側の人の中に僕の精神があった。何かの映画だったのか、漫画だったのか、小説だったかに出自がある気がする。される側になってみるとなかなか酷いことをされているのだが、実は先に尊厳を毀損したのはされる側が複数人でやらかしており、どういう示唆かも分からない。

 

輪廻というか、業の輪は恐ろしいことだ。

 

 

引き続き宿を眺めていた今朝。やはり土地が凄く良さげ。宿泊ルートで日記の為のノートパソコンを運ぶためにコロコロを買った方が良いのかと思ったが、それだと、帰りの2時間徒歩ルートがとても大変になることに気付く。なるべく現地調達をするとして、荷物はリュックサック1個に軽めで収めたい。別に晩御飯とか温泉は重要ではないから素泊まりで良いが、周りにコンビニとかあるのだろうか。考えていくにつれ予定を立てて泊ることが面倒になってくる。考えているうちに行った気になってしますし。

 

ぱっと思い付きで向かってばさっと泊まるようなのが良き。

誰かと行くならきちんと計画を立てるべきだが、たかが1人だからなんでもできる。

 

そういえば、職場がまぁまぁ大変なことになっている。それでも仕事はそのままだから、明日は残業付き、稼働人数いつもの半分未満。まぁそういうこともある。

 

(熱下がって良かったですな)

 

 

そんなことより、というと薄情者みたいだが、というか、僕は基本的に薄情者である。三次元の命には特に何も思わないみたい。だって、ここで考えたらほんとキリがなくないかという立場。たぶんこのご時世で退場してしまった人より、毎年の交通事故とか自己退場の方が単純な数では多いはず。だから何も想わないということではないが、考え出すと他人事ではなくなるからなぁ。

 

命はとんと難しい。

 

立ち読みした本で、心のIQという概念があったEQというらしい。今ちらっとグーグル先生に質問したら、物事を適切かつ正確に処理することができる知的能力ということらしい。この本の中で面白いと思ったのが、EQが低い人は、会話の相手の手番の時、自分が次に何を話そうかと考えている(話を聞いていない)というやつ。高い人はまずは聞こうとするらしい。面白い。相手の立場になって考えるためには相手の言い分をまずは聞かないと分からない。

 

暇ではなかったのだが、算数のことも考えていた。来月の初め休日出勤があって、全て残業扱いで、日給は単純計算でいくらになるのだろうなと。25%増の8時間って、通常の時給の10時間になって計算がしやすいのだなと手を動かしていたら気付いた。これは掛け算のルールである、掛ける数がいくつかあったとき、何処からかけても同じ結果になるというルールから。時給×割増(1.25)×8時間は、先に1.25=4分の5×8を計算した方が早い。いやはや、数学世界はよくできている。

 

もちろん、こんな計算は計算機でやった方が遥かに早い。笑

僕は数を扱う思考はとても疎いから、高校数学の世界全然構築できてない。微積分を計算できるようになるというより、言語化できるようにしたい。

 

ルールといえば、税制の話。公平・中立・簡素は良いし、よくできているルールだとは思うのだが、完全で完璧なシステムは在りえないから、税金について文句を言うのは国民の当然の素朴だと想う。本当に真理だったら、とっくに全世界の税金ルールが統一化されているはず。いや、これは言い過ぎで、正しいシステムが見つかっても、惰性によってそれを採り入れることができないのが人間臭い。既得権とか。

 

単純に無知の素朴で考えたとき、累進課税の公平性ってどう理屈がつくのだろう。納税額というモノサシで見れば不公平。いや、所得に対する割合というモノサシで言えば公平なんだというというのは知識がなくても想像つくが、この時点で公平という天秤は、どういう風に設定するかによる可変てきな計りでしかない。

 

平等の観念もそうで、どういう属性をどういう指標で比べるのかによって平等はズレる。

真理ではなく恣意的な概念。

 

ただ、僕は私生活の関係でそういうことをやろうとしていた。言ったら、いや自分の方が重いんだみたいなことになって、そりゃそうだろうなとなる。誰だって自分が一番重い。

 

公平ではない、平等ではないと想ったとき、「自分が貰い過ぎている」という意味での不公平、不平等が起こったことがあれば、バランス感覚が優れているのかもしれない。どちらにせよ一定の絶対的な基準ではないわな。

 

 

個人的な喫緊で、感情と理屈について思索があった。

 

そもそも感情に理由はないのに、言語化って理屈付けみたいなものだから、感情を整理して書くと、かなり滑稽なことになるのだなぁという感想。

 

感情に理由がないというのは、リンゴが木から落ちるのは重力によるというような三次元の因果関係ではないから。それでも、自分の感情を同じように捉えてしまう。原因があるからそういう感情が起こるのだという接続。こういう文脈での響きは、因果ではなく文化だろうなという感じがある。

 

感情は当人自体でない。あぁEQの話で、感情を自分でコントールできるのが高い人だというのもあったな。

 

僕の説得力のない論理的感情を言語化しておく。

 

好きな人に対して、ハッピーに生きている人が僕の文章とか好意を投げる私信を読むべきできないと書いた。

 

これって色々な感情がこんがらがっているのだが、単純な論理で考えたら、読めないところで書けば良いし、ラブレターは送らないと自分が決めれば良い話。そもそも僕の素朴として、人に読まれること自体に全然重きを置いておらず、僕を読んだかどうかなんてどうでも良いのに。

 

なんなら、早く僕のことは忘れて欲しいと思っているのだから、この理屈で言えば、僕が好きな人を読んでいることも書かなくて良いし、僕が書いていることを読んで貰う必要もない。

 

貰い過ぎている。

という感覚が現実的ではないから嫌なのだろうな。

 

そういえば、「考える身体」で、言葉と人の関係というのがあった。言葉は発すると自分の耳が聞くし、書くと自分の目が見る。言語は自分が現した時点で他人事になりながら、自分に返って来るということ。

 

ここからすれば、言葉は誰かに発する前に自分に発しているということになる。

 

祈りもそういうことなのかな。

 

僕は自分の言葉を自己の人格であるとはあんまりしていないから、全否定してくる人が現れても面白いかなって想っているのだが、人を否定できる人は自分が否定される覚悟がある人。母親はお母さんなのでそんなことはしないが、これが無関係の人だったらどうなるだろうな。まぁ自分が否定されないことにかまけて他人を否定するような言葉を遣うというのはありうる。

 

具体的な人のことは一切否定しないようにしよう。(自戒)

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

当人でありますように。