自他の分け方

 

 

 

よくよく考えると、完全に架空ではない日記って夏休みの宿題の絵日記でも難しい。仕事に行ったかどうかは勤怠の記録を見れば現実だと分かる。同じように、天気もその時間のその地域の天候記録を調べれば分かるし、弁当とか何を見たかというのは画像を証拠として照合できる。

 

では、その時の感情や、感じや思考は如何。何とも照らし合わせることができない独立したものだから、これを架空で書くか虚構で書くかは書き手のポリシー次第であり、書き手と読み手で照らし合わせることができるわけでも無い。それに、こんな毒にも薬にもならぬ領域であれば、現実か虚構かなぞ気にする必要もないし。

 

一緒に暮らしていればそれが現実として触れられるかとなると、そうでもない。僕の思考とか思想領域は、僕の現実の言動を見てもちっとも読み取れないはず。感情ならまぁ分かるかもしれないが、感じはもっと無理。

 

現実を詳細に言語化すればするほど架空と見分けが付かなくなってくるということ。僕はポリシーとして、虚飾は排して言語を綴っているつもりだが、読み手からしたらそんなことは知ったことではないのも分かる。

 

芸術学で、「作品」とは何かというのがあった。作られたものの実用性ではなく、作られること自体に意味があるものだとか(前の読者が鉛筆で線引きしていた)。日記も普通は読み返すために記録するという実用性があるし、ウェブログであれば完成品を読んでもらうことに実用性がある。僕のは知らない人の足跡が付いたりアクセス数増えていたりすると、モニタリングとは別で嬉しいより先に、ぎょっとする。

 

しかし、作ることに意味を置いているともちょっと違うような、いや、たしかに記録しているというよりは、日記の枠内で作っているという感はある。読んだところで何か発見がある実用性もないしなぁ。読んで貰っている感はなんとなくあり、それはそれで暖が取れているのだが、別に僕は暖がなくても生きていけるような気はしている。

 

さておき。日記に戻る。

 

夢の混沌具合が楽しい。従妹と添い寝をしていた。まぁ最初の生活感があるところの異性だし、お盆の季節だし。小中辺りにはお盆に親戚一同が集まるということになっており、お祭りもあって、1年の中でもっとも非現実めいていた期間だった。

 

次のシーン。僕は姉と妹に挟まれた長男なのだが、父親は妹2人の長男。末の叔母の旦那さんになぜかマッサージされている。肋骨の辺りを指で押さえられ、痛い。骨が歪んでいると言われて、立たされて何か歌を歌いながら色んな点を押されるにあたり、目を瞑って直立不動になっていたら、そうじゃない、歌いながら踊りながら施術されるのだってその家族一同にがっかりされる。踊り方は今も覚えているのだが、言葉が書くと長くなくのでやめる。アルゴリズム体操を見たせいに違いない。

 

(起きた後、プロのマッサージ受けてみようかなと思った次第)

 

その後は、現実を加工したような架空の地元で、里帰りして色んな人の今の人生を垣間見ているようなシーン。1人だけ僕に気付き、追いかけるのだが見つからなかった。中学校の同級生の女の子。この前の天理駅とは別の人なのだが、この人とも話してみたいなという感じがあるらしい。恋の再燃みたいな話ではなく、単に気になっているだけ。

 

ちなみに僕は人のことを人格で見ているらしいから、経年よりも当人の精神年齢が問題になる。ここでスクリーニングしたとき、人って経験は増えても一定のところで止まっているよな。幽霊を見たことがある人の話で、人の霊体は当人の全盛期の時で出てくるというのはなんとなく分からなくもない。幽霊は見たことないが。

 

一般論に流されて人と接してきたが、このてらいなき眼で接したらもっと面白そうだなという向き。年齢って単なる事務情報に過ぎない。いや、三次元で人を見るなら必須の要素だが。

 

流されると言えば、僕はご飯情報にはほとんど流れないなぁ。そもそも外食に快楽を感じない。会食も特に重くない。ただ、何を食べたいかという衝動はある。本日はひじきと煮物と、美味しい焼き鳥が食べたくなった。現実化できたこととできなかったことがあるが、書くと時間切れになりそうだから省略。本日も美味しい。

 

しかし、僕は結構本の情報には流されるところはある。この本が良いみたいな世論はどうでも良いが、具体的になった誰かが読んでいた本とか。僕はインターネット世界であっても抽象的に人を捉えることはない。

 

東京奇譚集の腎臓の石の話。昼休憩時間に時間があったから、立ち読みでざっと読み返した。読む前には全く思い出せなかったが、最初の方を読んだだけで、あぁこれ読んだことあるやつだとなる。「小説家は、観察して観察して、なるべく判断を先送りする職業だ」ってフレーズ好きだったのに。

 

村上さんの本は、学生時代にいっぱい読んだ。僕はその後の本も結構好きなのだが、当時読んでいた友人は、最近のはあかんみたいなこと言っていたな(これも5年前くらい)。最近映画化されているみたいだが、車のやつって風評被害だって問題になったやつではなかったっけ。煙草のポイ捨てで。

 

文脈ではなく単語で吹き上がる人は本を読まない人に多い。

 

言葉の記憶の話で、「思考する身体」。人は言葉を身体と直結して実感しているという章。「ことばと意味」でも出てくるメルロポンティさん、僕が読んでいる本で引く手あまたで引用されている。

 

ポンティさんの引用ではないのだが、人が痛いという言葉を実感するのは、自分が独立して痛いということではなく、痛いことが体に起こった時と、環境が痛いとしてくれることの一致みたいな話がある。確かに、人に対して痛そうもここから来ている。

 

僕はこういうのも点検して、自分が痛いのは自分だけのものであって痛さをおもんぱかって貰うことで慰撫されるようなものではないとしている。自分が痛いことが誰にも痛いことではないし、逆に自分が痛くなくても人が痛いということはありうる。

 

同じ痛さなんて無いし、検証不可能。

 

この自分と他人の癒着を切り離すのは、割と大変。

他人の痛さを自分の痛さと混同することができるのが一般的には倫理的な善だとされているみたいだし。僕はこういう観念こそ他人をちゃんと見ていない自己満足だと思っているのだが、こんなことは現実では言えない。こういうのは自分の世界のための道徳でしかない。

 

例えば、好きな人は定期的に二日酔いになっているみたいなのだが、僕はこの体調不良自体に一切気にかけることはない。現実だったらおかゆを作ったり水分補給を促したりとかはするだろうが。この例、不適切だな。自業自得という観念が一般的すぎる。

 

そんなことより、なんで二日酔いになるまで昨日を曖昧しないといけないのかが気になるところ。僕も人と飲んだときはだいたい壊れていたが、楽しんでいる風なのに記憶をなくすというのはどういう論理なのだろうって。

 

僕の中では愚痴を言い合って慰め合うのも自業自得に含まれる。

外敵が居ないと団結できないのは、人間の生物的習性的に正しいが、それでちゃんと人間として関係されているのかというのは気になるところ。

 

僕が特殊という可能性はありうる。1人で良いし、世界に対して基本的に不満もないし。

 

あぁ、そういえばこの事態で海岸の散歩も演劇の観劇も劇評もなくなったのだが、ちっとも残念ではない。演劇がなくても良いし、楽しみという期待値ってプラスでしかなく、それが無くなっても0に戻るだけだから、何も変動していない。

 

この感じは行動経済学にはおかしげだが、世界に対する期待が現実と混同されていなくしているということなのかもしれない。

 

未来の何かに期待するってそれが現実になること前提としているが、僕は現実になるまでは現実としていない。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

不安が少しでも減りますように。