分断

 

 

 

お昼休憩でイヤホンを新調して鮮明なBGM。前のイヤホンはコンビニで購入したのだが、扱いが悪すぎて最近片耳から聞こえなくなっていた。だいたい黒か白ばかり選ぶのだが、なんとなくグリーンを選択。どうせ耳に着けているときには見えないのだけど、従来の自分が選ばないこと・ものを選ぶようにしている。

 

あまりにこだわりがないちゃらんぽらんだから、こういう些事でもいちいち自発的に選ばないといけないと気付いた。気を抜くとなんでも良いになってしまうが、こういうところが存在をぼやかして居たのだろうな。どうでも良い領域で譲るのは問題が、どっちでも選択できるのであればその中できちんと選ぶ。

 

 

いったんさておき。

 

 

仕事が繁忙期で、なかなかの仕事した感。寝不足の眠気が数分暇になっただけでやってくるから、むしろちょうど良い感じ。たぶん見落としもない、はず。寝不足で変に意識が介入しない方が、きちんと世界が見えて反応できる。寝不足に緊張やら弛緩がブレンドされると上手く見えないのだが、これ寝不足とも関係ないか。

 

焦ったり意識を手放したりしていると見える世界が狭くなる。きっともっとも鮮明に見えるのはフラットな状態で、この状態を保つってなかなか難しい。意識を意識するのではなく世界を意識するってスピリチュアルみたいだが、たしかに日常ではあんまり掴めない感覚かもしれない。美的世界に浸る瞬間がそんな感じがするが、きっとピンと来ることはなかろう。

 

書くネタが尽きない。

しかし、僕には知識がないという自覚がある。

 

記憶とか知識って、有事に活用される瞬間に出てくれば良い訳で、物みたいに収納したり整理したりするものではないという感じだから、なにもないときに蘊蓄的に披露するような物はない。まぁ、薀蓄的に披露できる場があれば何かそこで演出が起こるのだろうけど、平時に整理していないし、出てくることはまぁまぁ無用な発想のみ。この辺りの全貌は自分でも把握しきれない。記述しようとすればどれだけ時間があっても足りないし、誰しもそんな自分で存在しているのではと思っている。

 

こういう領域が心なのかな。

僕は自分の情が篤いとは全く思わない。薄情者。ただ、ここにおける情っておそらく他人に対する情じゃないのだよな。あくまで自分の感情に敏感という基準。こういう人って自己の感情が正しいから、事情度外視で、勝手に同情したり侵食したりする。逆に事情は結構慮るかもしれない。自分の事情と相手の事情は違うことの方が多いのだから、一致も同期もさせる必要がない。

 

こういうところから考えみると、良心の自由の概念が興味深い。昨日もちらっと書いた気がするが、人の内心は不可侵だというルールを記述しなくてはならない歴史の事情があったからこのルールを文字化しなくてはならなかった。

 

割と宗教的な世界観からの教訓のはず。行動的(物理的)規範以上に、思想も均一化していなければならず、異端の思想を持った人はどれだけ社会に対して勤勉でも排斥される。

 

まぁこんなの宗教を取り去っても、自分(達)とは違う思想が分かったら遠ざけるという意味では人間の普通の感覚だろうから、あんまり歴史は動いていなさそう。

 

人身御供はヤマタノオロチの時代には普通だが、今は不合理だとして、不合理だと言う人がその時代に生きていたとして、そんなことを主張できるとは思わない。昔の漫画を読んだ感想で当時は大丈夫だったとしても今は駄目だみたいなやつ。感覚が更新されている風だが、時代に同期しているだけ。

 

言葉遣いが更新されても、その更新に人は気付かないというのが言語学にあったが、これと近いのだろうな。存在と癒着しているから、前の存在は無い物になる。

 

ここは割とどうでも良い。

 

「心が痛い」という常套句について少しばかり思うところ。

心は概念だから本来痛覚は無いにもかかわらず、この表現は違和なく受容されている。もちろん僕も分かるのだが、よくよく考えるとちょっと変だ。

 

この違和感をすっきりする知見は物理学からやってくる。哲学もだが。

人は自然を認識する道具として、時間と空間という概念を構築して世界はそういうものだとしたから、自分の存在もこの意味での時空に存在しているとした。だから、精神体にも物理的な痛みを流用する。いや、この観念、とても筋が通っているし、一般的な共通観念だから、心の痛みを表現しやすくて良さげ。

 

僕はこの語用は駄目だったのだが。

素朴に考えると、人の心の領域は時空と無関係に在って、外から感知できるものではない。五感以上のアンテナを使えば感じは響くかもしれないが、どちらにせよ言語化できるところには無い。

 

で、もう少し進んで行くと、心が痛いという状態って、別に物理界に反映させることで重さ測れない。調子が悪くなるのも自由だし、調子が悪くならかったとしても、痛がってないかは分からない。痛い痛いと外に表すことって、ほんとうに痛いかどうかとは別に、痛がって居る自分に世界が気付けという、赤ちゃんの癇癪めいたものがある。

 

別に希死念慮厭世観もあって良い。

ただ、その世界観の中に同列な他人が存在しないのは面白くない。同列な他人が居れば、自分の痛さだけしか見ないなんてないもの。

 

僕は心が時空から解き放たれた概念となったから、痛さを物理的な感覚と同期していないし、他人の痛みが分かるともしていない。分かるのは具体的な事情だけであって、同情もしない、というかできない。同情って相対的な感覚で弱い者に対してするもの。

 

安部公房さんだったかな、自分より弱い者に対する愛は殺気とセットだとか。

自分が居なければ死んでしまう存在に対する慈愛なのかな、知らんけど。

 

僕はそんな存在が現れたら、僕の言う事を正しいとは思わないようにって教える気がする。

正しさの象徴にはなりたくない。神様になるつもりもなく。

 

 

やれやれ。

 

肉体の話。

 

オリジン弁当、美味しいしバリエーション豊かだが、このコストを毎日かける気にはならない。自分で作る日常ご飯の方が愛があるし、時間とお金のコスト管理が面倒。外食は基本的に自分で作るより人件費がかかっているが、その費用は僕の為ではないから、胃腸がしんどくなる。作業としての仕事として調理しているか、調理に愛を用いているかで、吸収力が全然違うと思うのだが、のど越しというか味覚越しでしかご飯を食べてない人が多いだろうから共有はできないし、できなくても良い。

 

同じ人だと認識されたくない。ちょうど良いなら良い。

人と人は違うのに、自分の部分と一致しただけで同類だという感覚は困る。

まぁ、この文章を読んでいる人が僕と同期できるという感覚がある訳ないけど。

 

読んでいる人の記事で、可読量の話があった。

1分で1400文字。すげーとなる。僕の文章もどれも3分以内に読める。良いことだ。

 

自分の読書速度をモニタリングしてないし、たしかにじっくり読むことに特に意味はないから良いのだが、人生は何処かに辿り着くみたいなことではなく、単に面白く生きられればそれで良いのではという感じ。

 

自分が楽しければ、他人が障ることはない。

 

障りの感覚についてはまた明日。

予告演出でおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。