暴走

 

 

「愛しているんだ。」「ホルモンと感謝で言っているだけ。人はそんな理由で結婚しない。結婚してはいけない。」 by時の他に敵なし

 

 

終わりの気配に満ち満ちた朝。夢の中でBGMになっていた雨音がすっかり世界を冷ませたのか、とても涼しい。夏休みの終わりの方ってこんな空気だったろうか。ピタゴラスイッチの、アルゴリズムなんとかの、「そっろそろ終わりかな、そっろそろ終わりかな、、」というフレーズが頭の中でリピートしていた。夏と一緒に色々と終わりそうだな、と。

 

しかし、昼休憩で外に出たところ、夏の雲、日の光、暑い。夏のやる気はまだ終わっていなかった。朝はしっとりしていた世界も乾きつつあり、ミニ空中庭園のベンチもからっとしていた。今日はお弁当画像貼れるわと思いながら庭園を歩いていると、スダチ色の実を見かけてやる気に満ち満ちている姿に見惚れ、思わず撮ってしまった(本日の写真1)。プレートを見るとレモンとのこと。檸檬は果実としての思い入れはないが、言葉としては色々あるため好き。

 

遠距離恋愛中、それぞれ最寄りの図書館に向かい、架空の図書館デートをした。同じ本を読む。梶井さんの檸檬。で、それぞれそのデートについて短い短編文章を書いて交換する。今更ながらむちゃくちゃ楽しい恋愛ばかりしてきたな。ちなみにお相手は本の師匠。

 

なんとなく停滞状態だった気分が一気に上がったのは、檸檬おかげかお日様か、はたまたおむらいすか。

 

仕事はそこそこ大変だったのだが、特に言うことはない。いや、なんだか現実の人って、一般的概念とローカル的な自分の概念をいっしょくたにしている感じ。最終盤、やっと落ち着いて、静かになっていたら、上司が、3人も居るのに静かにならんといてやみたいなことを言う。雑談が好きなのは分かるが、雑談をする相手を好きかというとそうとは限らないし、個人的に雑談量と好意は全く相関していない。間が持たないとか時間を潰すためにも機能するのが会話。

 

この上司に、この前、お盆休みには全く人と会わず、何処にも行っていないと話すと、「仙人みたいやな」と言われた。別に僕だって、会いたい人くらいはいるし何処かにも行くが、惰性ではしないようにしようと思っているだけ。惰性とは、それを日常的にしていないと所在なさを感じること。

 

一般的概念を自分の素朴の概念としてしまうというのは、スーパーの総菜談義を聞いたところから。遅い時間に行くと総菜がないとか云々。僕もずっと自炊だった訳ではないから、総菜生活をしていた時期もあり、この感覚はとても分かる。でも、これって与えられたものを生活の基盤とする、割と不安定。自分で作らなくて良いというアドバンテージがあるようで、総菜の供給がなくなると、また別の前提を再構築しなければならないということ。

 

僕はこういうのが嫌だってことではなく単に、決まった味ばかり食べることの飽きと作ることを天秤にかけて、後が重かったというだけ。後者だと体具合に合わせて調整できるし。本日はなんとなく鯖缶と大根、人参、しいたけ、もやしで煮物にした。

 

ここから、思想的な観念でも、与えられたものを所与としていることは多いのだろうなと進む。僕は与えられている観念を1つ1つ点検して選別して再構築してやっとこさのいま。人の当たり前は別にそうだろうなと思うが、選別した結果としてのそれなのか、所与としてのそれなのかで、観念の扱い方が随分と変わってくる。

 

所与のものとしているなら、その観念に馴染まない人は否定できる。「AIは人を憎まない」で、合理主義者のコミュニティは多数恋愛が主流らしい。これに対してカルトだって否定があるとか。これについて著者は、人は通常、「変わっている」と、「道徳的にけしからん」を分けられないとか書いていた。僕は多数恋愛主義の人はそれはそれでよろしかろうと考えるが、個人的な領域において、好きな人は1人でいっぱいいっぱいである。これは倫理的な問題ではなく、精神と肉体の分配をそんなに器用にできないという自分の観念。

 

まぁ、当たり前を所与ではないものとして再点検するってよほど「変わっている」か、何かそうしなければならない理由がない限りされないことだよな。

 

知識をひけらかしてマウントを取って来る人が居るとして、それはおそらく努力と人格的な価値が直結しているという所与の価値観を信仰している。僕もそういう風に見えるかもしれないという危惧はあるが、だとすれば宗派が合ってないということだろうと思われる。

 

僕は誰かの中にある当たり前にできないローカル観念が気になるだけで、僕がここで書いているものも、ローカルでしかないと自覚している。どれだけ本の情報を採り入れていても、そのまま信仰している訳でもないし。

 

さておき。

 

好きな人が、「架空の思い出を売る」というアイデアを呟いていて、売ることはないにしても架空の思い出の文章化ってかなり面白そうだなと思った。個人情報は開示することなく、僕が読みとれた人格を前提に会ったことにしてみてみる。特に官能的なものもなく(リクエストがあれば笑)。誰か許してくれないかな。

 

ただ、これを日記に書いてしまうと僕のローカルルールには反する。でも、日記と遜色ない現実感で書ける気もしないでもなくて面白くなってくる。誰かさんと直にベルセルク談義をしたとか、誰かさんと何処かのカフェで話したとか、誰かさんと通話の中でよろしくないことをしてみたとか、誰かさんと一緒に「あこがれ」を鑑賞してみたとか。

 

このアイデアが面白いのは実際に書く相手がどうのではなく、あぁこの感覚が創作のやり方なのかなというところ。僕はあくまで自分が読み手だと思っているから、創作は神域みたいな畏怖があるだが、小説を書くことが架空の思い出を綴ることだとすれば、夢を恣意的に操作することとそんなに変わらないよなって。

 

いやはや、1人で楽しくなっている感。

歓心を買うためのものだと思われるのは心外なのだが、関係を断捨離しても残った縁みたいな意味で希少価値を感じているのはたしか。よく読んで貰っているものだが、別に返したいからでもない。

 

なるほど、芸術ってもともとそんなものなのかもという実感。

当人の中にある架空を現実化すること。僕は漫画とかゲームも芸術に含めている。含まれないものもある気もするが。

 

そうして、僕の読む人としてのモノサシなのだが、僕は読み物から作者の人格を読もうとする。文章では日常と言葉遣いが違ったとしても、癖は拭えないし、それが感じられない人ってあんまり言葉と自分の一致がないというか、言葉と向き合ったことがなさそう。

 

だから文章を1さらいすれば架空の思い出を創れるくらいの架空の人格観は得られる。

現実世界だと人格より前に三次元の圧倒的な存在感があるからあまり分からない。人格まで分厚いが過ぎる。

 

また軽くなってしまった感。

 

やっぱり、こういう意味でも好きな人への好きがやめられないのだよな。

この人を見つけてから、自分がどんどん解放されている。

 

少なくとも人格は3次元ではない。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良き架空を。