運動
奥歯の奥が口内炎。脳が歯痛と誤作動する。口内炎って痛い時にしか現れない概念で、色々と同列なものがあるのかもしれない。
本日もダーツで朝活したかったのだが、体が筋肉痛でストップをかけてきたため断念。やる気だけで行っても筋肉痛の違和感で変なことになる。体に無理はさせない、ほんまか。まぁ筋肉痛が癒えたら初心者の壁を越えるまで課金しよう。
自分にかけるのは投資なのか。あんまり変わらないと思うが。暇つぶしとか楽しさとか幸せが返ってくるのだから。
その後は、運の運動。運もエクササイズするものなのだろうなと思ってきた。運の哲学。同じ台(場所)でラウンドを積み重ねて行けばそこが持っている振り分けに収束するが、運って、その瞬間にそこに居られるかどうかであって、そこへのアンテナなのかもなって。虫の知らせとして言語化されいるような感覚。
少なくとも理性が捉えられるようなところには無い。
本能ともちと違うような。第六感という言葉がある時点でそういうものが人にはあると把握されている。
別に運試し場のことだけを言っているのではなく、人生劇場全般の話。
過敏になって面白い場。僕は自分に価値があるとか思っていない節がある模様。意志の現実化も試してみたが、そういうところで生きていない。
あぁ、別にオカルトに寄ることもないです。
簿記論のシステム楽しい。
お酒を飲んだ翌日に食欲がバグるときと胃もたれするときの違いが分からない。本日はバグる日で、きちんと朝昼晩と食べた。
朝はかちゅーゆと梅干ご飯。かちゅーゆというのは簡易的な味噌汁みたいなもの。体が酸性になるとアルカリ分を求める。アルコール飲んでなければ不食になるからカロリーの為に飲んでいる節もありそう。個人的に、ご飯食べて幸せっていうのはないのだよな。ちゃんといただきますの感謝はするけれども。よくよく考えてみれば、僕を作ったのは物質だけではないし、物質だけで幸せというも何か違う。
昼は松屋でネギポン牛めしを食べた。最後らへんはお腹いっぱいで一生懸命。
夜は作ったご飯。
満腹なのに食べないといけないという最初は給食なのか。
特に疑義はなかったが、食べることってそうやってちょっと無理強いしないといけない風味がある。そりゃそうだ、世界を取り込むってある意味しんどいことだから、欲求で気持ち良さを感じさせないといけない。
思考実験で、まぐあいがもっと痛かったらそれでも試める人は居るだろうかと考えたことがある。人類の存続の危機になるだろうなという結論。いや、痛いのが好きな人も居るから、そういう精鋭が生き残るのか。
さておき。
日記パートがそうそうに終わったが、こんなの気分である。
多くても少なくても、僕はほんと楽しく生きている。来年には違う部屋で同じように楽しんでいるのだろうし。
読書は痛みというか、違和を伴わない世界の取り込み。
もちろん自我がぶっ壊されることもあるが、これは破壊ではなく感動と名付けられている。つまり、精神体は従来が壊れても問題ないということ。肉体だとこうはいかない。
マルクスさんが、資本主義(国民経済学)を論考している本で、分業は自然の才能が分化する原因ではなく結果だと書いていて、なるほどだった。分業が発展することによって、人の可能性が拡がって収まる。「ノルウェイの森」の突撃隊が地図を書く人になりたいという仕事を欲するのも、そういう仕事があるとどこかで知ったから。
準えている自分が自分であるという価値。
僕はとんと価値で生きていないから、狂気の人ではある。
文字数少ないのは、満月さんと睦言を交わす時間が割り込んでいるからだが、それほど文章体に価値を置いていないし、文章時間に割り込んでも良いと想われるのであればそれでも良い。邪魔とかじゃなく、気を遣ってないところが良き。
自分の時間って誰と居ても何処で居ても作れるし、別に書かなくても豊かなのだよな。
どうでも良いが、今後の展望として、賞金稼ぎという職業が浮かんだのだが、浮世離れし過ぎ。ただ、何かできそう。
はい、おしまい。
まだリハビリ感。
おやすみなさい。
良い夢を。