読み取れてしまうもの

 

 

キリンの秋味を見かけるようになると夏の終わりという感じ。美味しさで言えば一番搾りの安定感にはかなわないのだが、季節ものとして発売したら1回は買う。デザインも好き。

 

そういえば、ビールばかり飲むようになったのはいつ頃からだろう。お腹がふくれるから焼酎とか日本酒に移行する人達が多かったが、ちびちび飲まなくてもあんまり酔わないというか、単に味が好き。父親はスーパードライを飲んでいたイメージだが、キリンも飲んでいたような気もして、特にポリシーはなかったかもしれない。カラオケフリータイムに行っていたころはビールは飲み放題に含まれないからちゃんぽん。ジントニックがあっさりしていて好きだった。

 

村上さんの影響によりバーでギムレットを飲んだとかもあったな。塩が振ってあるのだっけ。大学で仲良くなった(今でも個人的には友人と思っている)人は、新歓の時からビールばかり飲んでいるオトナだった。起き抜けにコーヒーにウイスキーを垂らして気付けしていたり、好きなビールがハイネケンだったり。まぁ、今飲むと、ハイネケンってかなり薄味だが。

 

秋味から掘り下げられた前置き。

 

どうでも良いというか今更なのかもしれないが、僕は文章を書くことが好きで良いのかもしれない。これだけ毎日書いていて好きでない訳がないだろうという経験則で総ツッコミが起こりそう。でもここで僕が言っている「好き」はそれをすることが楽しいとか、優先的に時間を使う、選択肢の中で重いという意味ではなく、生活とは無関係に継続できるという意味。誰かが読んでくれるという効果とも無関係だし、完成度も気にならない。ただ「好き」以外で言い換えることができない概念。

 

「好き」の意味は言い換え可能な概念が多すぎるが、これは「愛」も同じような感じ。僕は言葉に愛を持っているとしていいのかもしれない。好きな人への「好き」もそれ以外に言い換えられる言葉がない。

 

かもしれないが多いのは、僕は別に自分を言葉で定義していないから、定義付けようとすると、ほんまか? となるため。外に向けて定義したところで、その定義通り読んでくれるわけでもないし。

 

そういえば、時系列上の遊びの記述について反響めいたものが読めた。僕の18禁の経験、なにかあったかなぁと掘り返すと、あったな。

 

あれは、大学が入った2年目くらいの頃、中学校の同級生が大阪の別の大学に出てきていて、その人の部屋で、男女混合の宅飲みが開催されたときの話。たまたま他の人達が買い出しに出て、僕と女の子が取り残された(今思えば何かの意図だったのかも)。どういう雰囲気のカオスなのか分からないが、なぜだか深めの接吻を重ねることになる。

 

その人とはそれだけのエピソード。その後に恋人になるとかはなかったし、普通はそういうことにはならないはずだと思い、背景を掘り返すと、僕は大学入ってから初めての恋人さんに1か月でフラれた後で、相手も恋人と別れたあとの傷心だったような気がする。空白を埋めるための接吻。名前は思い出せないが、変わった名前だったなぁとか思っていたら、思い出せてしてまった。こわ。仕合せになってくれることをお祈りしよう。

 

1か月で振られて傷心とはなんぞやというところだが、初めてまぐわった人だし、桜の通り抜けを来年も見ようとなっていたし、なんかもっとうまくできたのではないかと思い、とても痛かった。

 

その後は、誰かの紹介で会ったり、SNSで知り合った人に会ったりと割と荒れていた時期があるのだが、最後まで致した人は皆無。何の為にそんなことやっていたのだろうと思うが何かを埋めたかったのだろうな。寂しいと思い込んでいた。

 

その後知り合ったのが、ほんとの恋人が東京に居てあまり家に居たくない人。

都合の良い止まり木だったのだろう。これはこれで清々しくて良い思い出。コンプレックスの塊で、その原因は病弱な妹さんだが、愛もあるため反動として男漁りをしているような感じ(よく知らない)。「誰も好きにならない」という発言は、世界に対する怨嗟だが、今はどのように生きているのだろう。まり家に居たくないというのは、コンビニ時代の先輩と結婚した人もそのようなことを言っていたな。

 

あんまり細かく書くとアレ、何かの他の欠落を埋めるために異性を使う人は一定数居るのかもしれない。これも程度問題で、接触しなくても埋めるために人は居るのかもしれない。先輩男子が、Twitterのアカウントがパスワードを間違えすぎて凍結されてしまったと話していて、フォロワー何百人がーとか言っていて、他人は自分と同じ重さがなく単なる数なんだろうなと思ったのと近い。

 

掘り返してみて、僕は恋人としかまぐわってないらしい。業者さんもなし。いや、そんなの当たり前だろうという層も居ると思われるが、そういう人は、当たり前は人それぞれであると自戒した方が良いと思う。

 

僕はそういう当たり前に封殺されてきた。やらしい話については特に封殺はない。いつも1対1のことだし、相手の当たり前に合わせなくても良いし。あ、避妊具付けるんだと言われたことはある。どれだけ悲惨な当たり前だったのだろう、いやこの話掘り下げない。

 

僕の本質は、この20代前半よりももっと前の、世界に対してきちんと向き合うところにあったのだが、世の中の当たり前がとても雑かったため、何もしない方が良いよなとなったのだろうな。

 

単純な勉強もそうだし、人に対してもそう。重要なことしか覚えていないってなんなのだろう。いや、行動経済学上の学習理論なのだとは思う。正しかったことを選別してバイアスを構築する。バイアスは脳の手抜きって別の本で書いていた。

 

ちゃんと何かに対して考えようとしてそれを言語化しても、考え過ぎだって一蹴されるし精神と現実がずっと釣り合わなかった。たしかに、人の感情を考えても当たらない(バイ地獄楽の紅さん)。これは切り離さないといけないが、僕は世界自体の不可視領域をまだ決めていない。

 

別に卑屈でもないんだよな。どうせ選ばれないとかはない。あら、矛盾。

 

僕が好きな人を好きなのは、僕の精神的無軌道な文体を受け入れてくれたことで、一般的な意味での当たり前から解放してくれた。

 

自分に把握できるのは貰っていることだけで、あげているかどうかは相手次第。

ということを歩きながら考えたのだが、一般的には貰うより主観的にあげる方が重いよな。自分が与えているのだから与えたように享受すべきみたいな。独裁者みたいだ。

 

自分が費やしたことに対して、鏡のように反射して返って来るべきという観念って、ほんとに相手を人をとして捉えているのだろうか。

 

そういえば、本日個人的に師匠だとしているホームレスの人がさっぱりしていた。あまりの変わりように凝視していたら目が合ってしまって、すぐ逸らす(陰キャ)。僕の中には話したことがない人も存在しているので。リアル仙人。

 

 

思考のことをヘーゲルさんとか諸々の人たちが一斉に書いている。(いやたまたまその個所を同時に読んだだけ)。

 

ヘーゲルさんの精神現象学だと、思考は質であり、それが存在との一致だとしている。比較ではない自分を思考するってやったことがない人が多いと思う。自分の感情が正しいという理屈をつけることは、思考ではない。

 

思考とは文体であって、肉体の挙動と等しいみたいな方が好き。

思考したことを言語化したみたいな日記は結構あるが、言語化自体が思考であるとしている日記はほとんどない。

 

言語って操作性があるから、考えていないことも考えている風に書ける。儀礼的な言葉とかはほとんどそう。別にこれはメディアとしての言葉だから良いのだが、メディアになった人ってもはや自分の素朴な言葉を扱えない。まぁ、もともと言葉自体が素朴ではありえないのだが、嘘付いたら自分に返って来るだけ。

 

文体は嘘付けない。

存在場所をもうちょっと考えないといけないのかも。

 

では、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。