未明

 

 

 

人の本質を探ることは玉ねぎを剥いていくのと似ている。剥いて剥いて中心にたどり着いたところに触れられるものは残っていない。とはいえ人間は玉ねぎではなく、男はぺたぺたと顔に触れながら「全然届かない」と呟く。接吻をしてみる。感触が心地良い。しかし、それでも触れられている気がしない。

 

(妄想の中で)

 

さておき。

 

なんだか、忘れないで良いという観念はとてものびのびできる。人は忘れるものだというのは分かるし、僕が好きな「思考の整理学」を書いている人が「忘却の整理学」というのを書いていて、人は忘れることで新しいことを採り入れることができるのだというのがあった。これも分かるが、記憶のキャパオーバーが思考を阻害するってほんとに正しいのかという疑問。思考は情報を使ってするものだから、あったらあったで道具が増えるだけだし、自分の中にあるシーンが増えることって他のシーンが入らないこととは直結していない。キャパを決めている人格によるのでは。新しいものを採り入れるために忘れるのだとして、その忘れられた自分はいったいどこに行くのだろう。うごうごと残骸が積み重なってそうなイメージ。

 

昨日の雨の匂いに良きかなと思う自分とか、本日の何故狐花が一輪だけまだ細長く残っているのだろうと疑問に思ったシーンとか、歩道橋の階段を数えて見たら31段だったとか、帰り路は少し明るくて、土筆を視認することができて、佃煮と通常の煮物は何が違うのかは是非とも調べなきゃと思ったこととか、もっと遡って、あぁあの人この名前だなと思い出すとか。自分を大切にするって、自分を甘やかすとか守るとかではなく、こういうことなのではと思う。この文脈であれば人も大切にできる。

 

なんで人の感情の起源とかをもっと観ようとしなかったのだろう。おそらくそういう指針になる人物が1人も居なかったから。これについては心理学の収集により感情の起こりみたいなものを見ても良いのだなとなった。癇癪的な感情って、世界の問題ではなく当人の内部の問題がほとんどだしな。

 

やれやれ。

 

本日は無性にケチャップ味のものが食べたくなり、ケチャップを購入。鶏もも肉とピーマンと安かった新玉ねぎで味付けはざっくり塩コショウとケチャップのみ。なんだか酢鶏みたいな味わいで、かつての職場でそういえば酢豚を振る舞ったこともあったなと思い出した。味付けは、中華だしとお酢となんだっけか。片栗粉の扱い以外はまだ簡単な部類。とろみが駄目な理由もきっと行動経済学的なこと。食感として大事なのは分かるが、味でも栄養でもなく単に食感を出すための調味料というのがよろしくない。単なるでんぷんだし。

 

いくらでもエピソードあるなと思うが、人ってそういうものでしかない。発掘作業しているだけ。ただ、僕にとってのエピソードって、生の体験も文字情報で触ったものもあまり違いがない。生だったら、匂いはとても本質的。頭皮の匂いとか。香ばしくて良きかな。

 

カントさんは、経験はアプリオリな概念によって認識されるものだと言っている。経験の前に経験を採り入れるフォーマットが搭載されていないと、経験として取り分けることができないということだと読んだ。

 

仕事の話。確かに漫然と過ごそうが何をしていようが、拘束された時間で作業をしていれば知識も行動様式も積み重ねられて、これは体験とされるものなのだろう。無意識的な図式というか、一定の人格。ただ、僕はそういうのでは足りないと思っていて、足りなさを埋めるのが想像ないし思考だとしている。あとは意識的負荷。仕事をしているのは自分ではない人格ではないのだから、何かしら素朴な自分に還元できるようにならないともったいなくないか。料理人がプライベートでは料理しないとはよく聞くし、ヘッドスパをしていた直近元恋人さんが1回だけしかしてくれなかった(めちゃくちゃ寝てしまった)のもなんとなく分かる。要は自分の行為を金銭価値で換算してしまうから、素朴な自分とは違うと認知してしまう。

 

ここにはただの心理とは逆の有料の心理が働いているのだと思われる。対価がないと動けない制限が働くと。行動経済学的な視点。僕は自分の文章が一応対価が払われる価値があるとされても、対価があるから書いた訳ではないから関係ない。ということは、仕事にできる可能性もある。仕事の文章とラブレターは別腹みたいな。仕事で培った通話スキルを母親との通話に使っている感もあるし、僕はこの辺りに節操がない。というか、自分を分けていない。

 

だから分けて生きているようなのが当たり前なことに違和感があったのか。違和感だらけだ。自分の人生なのだから何を対象として捉えても自分事である。

 

 

「料理なんて愛なんて」、佐々木愛さん。今見た。

 

かなり近いところに生きているような感じはともかくとして、なかなか良き人物が出てきた。「料理は愛情」という言葉が嫌いだという飲食店に勤めている男性。僕も嫌いです。料理は諦めない限り失敗はないという持論もそうだそうだと思う。試行錯誤が楽しいんよねと。それを越えて誰かに食べてもらうということにどきどきするのも分かる。料理と文章はちょっと似ている。世界に在る物を組み合わせて創るもの。

 

で、もっと共感したのが、主人公に恋をしたのだが、恋の理由がなんだか応援したくなったというところ。料理を作るのは嫌いだし、好きな人のために作ろうとも思えない自分を認識しつつ、しかし、自分が人間的に欠けていると思ってしまうからなんとか料理ができるようになりたいという内部的葛藤を好いてしまう。分かりみに尽きる。

 

僕も人のこういうところを見てしまう。外で埋めようとすることではなく、自分の不具合性を自覚しながら、あくせくする思想というか人格。歴代の人に対してももっとこういうところを見るべきだった。無自覚とか諦めている人は割と外に怒気を発することができるけど、これが自由な人格だとは思えない。

 

あと、この人物に対して主人公は「好きになりたい」と思ってみりんを購入するのだが、こっち視点でも分かる。高校時代から、良く知らない人から告白されて断らず、好きになろうと努力し出した1か月目で振られるという片手で数えられる経験から、相手の好いたという感情の枠内で好こうとすることはできないのは分かった。ただ、この小説の好いた人物の好意は自分にとって都合が良い人ではなく、内部の葛藤を応援したい人だからおそらくうまくいくだろうな。

 

と、いちいち小説の中の登場人物の面白い人に移入してしまうのだが、現実世界の生身の人物とどれほどの違いがあるのか。個人的にはほとんどない。生身の僕と接しているかどうかの違いは誤差のレベルでしかなく。なぜなら、僕は生身の生活圏で人格を解放していることがないから。ものさしとして自分しかない人に、自分を語る意義がない。こんだけ文章つづっているが、誰かに語りたい自分が居る訳ではない、といってもほとんどの人は信じてくれないと思う。

 

謎の人の水準の不可思議はもう、好きとかかわいいで良いのだろうな。

 

ちょっと想像すると、僕の文章が面白いから読みに来ているとはあんまり思えないし、近いと言えば近いし、近くないと言えば近くないし、言葉を投げないという意味もどうでも良いという捉え方から、言葉を投げなくても言葉を投げてくれるという安心まで色んな解釈ができる。

 

僕としては、勝手に応援できるし、この好意を空白を埋めるように利用しない人格がとても良きで、私信を送りたい衝動が尽きないし、送りたいという内部葛藤が(略)。

 

こういう繋がっている感を醸し出されると、どう返したらいいか分からない。

 

 

おやすみなさい。