できること

 

 

 

面白いことに何処にも行かなかった。最低限本屋には行くかなと思っていたのだがそれもなく。ゴーサインを出したのも直感で変な感じでブレーキをかけたのも直感。変な感じは悪い感じのざわざわではなく、これ以外に言葉を当てられない。もちろん解釈はいくつかある。

 

ごろごろしつつ、民法の条文を写経する作業を進める。脳の準備運動なイメージで結構楽しい。Excelをマウス使わずに操作する訓練にもなるし。法律の原初ってなんとなく刑法だったのかと思っていた。でも、刑法ってそうとう高度な共通感覚が形成されていないと無理だ。憲法はもっと後で、新参に挙げられるのが知財法とか租税法になるのだろうな。

 

おそらく法律の最初は個人間の個別的な約束にあったのだろうなとなる。民法って一般的に生きている限り、婚姻とかの家族法関連しか意識されない。あとは交通事故とか医療過誤とかの損害賠償か。不法行為の分野は社会的な便益と損失の調整という意味合いが強く、国家が設定したルール間があるが、民法の本質は当事者の合意だから、あんまりどちらかに偏らない限り、ルールは合意で決められる。だからこそ、骨格を言葉で示しておく必要があるという感じなのかな。という風に、不完全性が把握できる程、対象に親しみが沸く。

 

法律談義もなかなかできるようになってきたな。民法って書いてなくても当たり前のことは書かないという因習があったみたいで、今回の改正でやや修正されたみたいだが、ややこしい奴である。

 

八百万思想の日本人の系譜からすると、ルールの体系も擬人化して問題なさそう。むかーしTwitterで法学たんというアカウントで面白い文体があったのを思い出した。おそらく中の人は男性で真面目な人。何しているのだろう。

 

隠喩は言語を介した人が世界を把握するための機能みたいな話を「ことばと意味」で読んでいる。文法学については詳しくないのだが、喩えって要は全然別の物事の間に繋がりを見出すことであって、シンクロニシティと同じ感じのイメージ。

 

法律解釈学でいうとところの類推適用とも似ている。

 

 

さておき。

 

変な感じの何に、自分こそが逃げているのではというフレーズがありそうだが、ともかく。

 

 

「クララとお日様」が本格的に現代SFとしてホラーの様相を呈してきた。

以下ネタバレあり。

 

 

 

AFであるクララのお友達の人間はジョジーという名前。ジョジ―にはお姉さんがいてサリーという。サリーは亡くなっているのだが、一回サリーでも試したっぽい描写がある。AIに人格を学習させて、人格をアップロードすることにより、亡くなった人物を継続させるという試行。ジョジ―は病弱でなにやら不治の病らしいのだが、まだ生きているのに、クララが買われたのは、ジョジ―を学習できるAFはどれかという基準だった。

 

バックアップを取るというのはデジタルでは当たり前のことだが、人格にバックアップを取れるのか、取れるとしてもそれをするのかというと、なかなか意見は分かれるはず。

 

僕の見解。

 

そもそも他人のバックアップはもっての外。これをしなくても多分同じような感覚になれる人とは出逢える。よほど深くしてない限りだが、この深さは他人へのというより自分の深い領域に向いている。だって、相手はどこでまでいっても自分に感得できる外界の領域でしかない。

 

自分のバックアップを取れるということであれば、とても便利だとは思う。ある瞬間の自分の全部が保存されているのであれば悪い体験も無かったことができるし、良い体験の瞬間にいつでも居られる。僕はこれもごめん被るが。

 

僕は人も自分もアナログに捉えているから、脳と肉体のコピーがあったとしても全然別の人格でしかない。物理的な絶対的ルールとして、ある瞬間のある空間には1つの物体が有れば他の物体は重なれないから、その場の経験はその人だけのもの。VRにならば重なっても透過するのだろうが。

 

これがデータ量の問題であれば、そろそろ現実的に克服される技術的な問題かもしれない。なんなら、なりたい自分にもなれるかも。でも、その理想化された自分が自分と別の物体として現実化されたら、人はその存在を許さないと思う。インターネット世界で理想化された自分を演じるのとは訳が違う。制御できるとしても、きっと自分達で生き残り競争が起こる。火の鳥ちっく。

 

個人的には、僕の現時点の人格が複製されたとしても、それぞれ生きていけば良いとしかならず、何を選ぶかは当人によるよなぁという感じ。僕が三人居ても、同じ選択をする気がしない。いや、さすがに宵顔さんとくっつく僕が居ればそれは裏山。でも、それはそれで離れられてすっきりするかも。直感的にはどっちでも良い。

 

クローン人間が倫理的に禁忌だとしているのも同じような不安感なのだろうなと思う。現実的な反応パターンによって人を決めていて、反応はDNAで決まっているみたいな。運命論過ぎるし、骨格によって犯罪係数が高い人が決まる説のロンブローゾかよ。

 

僕と全く同じDNAの人が今この世に生まれたとしても、僕と同じようには絶対ならないと思うのだが、環境要因を度外視しているのか、「人は自然に生まれるもの」としているからなのか。

 

そもそも自然に生まれるようにはしてないが、その操作に対してはなんにもないのだろうか。いや、別にそういう社会であることを問題としてはいない。自然とは何ぞやというだけ。

 

別に人の事の家族計画のことはどうでも良い。

家族計画的な社会は個人ではなく群れとして捉えているだけとは思わなくもないが。

 

そうして、人にとっての人ということを考える。

 

「ことばと意味」で、1回隠喩化されたものは閾下の無意識になるという話があった。これは確かにで、人は概念なのに物体とできるようになる。僕はここを無理やり引きはがして、人は自分の人生劇場の登場人物ではないとした。もう会わない人なら書ける。

 

ここでちょっと関わった人に、人は自分と同じようなものだとして相手を捉えることが筋だって書いたのだが、その人はそれは当たり前だと応えながら、自分にとって都合が良い恋人さんを求めているように見えた。この人にとってはそれが当たり前の世界観。これで相手を見ていることになれる。もちろん、これは否定的な叙述ではない。

 

まぁ、自分にしてくれたこと、自分がしたことだけでしか相手を語れないのは、略

分かり易い世界観だから良きとは思う。

 

 

僕は人をそういうものと捉えてない。僕を気になる人って、そういう世界が無かった人なのかなという推論はあるが本筋ではない。

 

人物評価で、自分の本当はそうでないと評価してくる人は人生上多々ある。これに対する解釈で、それを素朴な自分と合わせる必要はないというのが今までだったが、そもそも素朴な自分の人格も在って無いようなものだなとなった。

 

言語の外にあるのが自分。

 

とすれば、というか僕をどう解釈されようがそれはその人の中での僕なのだろうなという無責任で良い。違いますよ、言質取りましたよって言われたとしても、その辺は無意識がきちんとやっているはず。

 

この文脈で、誰かの中に残っていることが人の自分に対する想いの強さにする手法は悪手でしかない。人は義務に対して素朴になれないから。

 

緩い。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。