用意した言葉がない日記。夢も見なかった。

 

腕が若干ヒリヒリ。どうでも良い話から。

 

なんとなく自分の腕毛が目に付いたため除毛クリームを買って使ってみた。「クララとお日様」を読む間だけ塗布して、トイレットペーパーで拭う。完全につるつるではないがなかなかすっきり。回数を重ねればつるつるになりそうだが、肌には悪そう。

 

何をやっているのだという感じだが、そういうのやっても良い時代になったよなということで、試んだだけ。誰が見るでも触る訳ではない。ただ、連動しなくてもやって良いよなという感じ。本職の常に綺麗するのが当たり前とみなされる女性は大変だ。今となってはここもポリシーの問題かもしれないが。

 

自分で決められることが多くなるというのは社会的な自由の幅が拡張されること。僕みたいな奴にとっては良い時代だが、自由になったらなったで良くないこともある。例えば、僕も仕事がスーツ以外でもOKになったら面倒くさい。OKとか言ってもドレスコードはあるし、なんというか、建前だけ。職場の女性の方が服装の自由度は高いが、その中でお洒落する気概があればともかく、着回しが大変になるだけだと思われる。なんというか、こういうのは目を瞑って見ないようにすることなのかもしれないが。

 

ここまで書いていてなんだがお洒落がさっぱり分からない。自分に馴染んだ服を着ていればそれで良いという人。この馴染むも外からどう見えるかという部分と、自分が何を纏いたいのかという2通りある。目をどこに置くか。僕は外に置いて無難に買っていたが、この外って別に具体的な誰かではなかった。今は、自分の目で外からどういう風に見えるかも想定した上で、好きな感じを纏おうとしている感じ。色合いではレディースの方がバリエーション多いので気になるがそこまで上級者ではない。

 

服装に絞ると物体として歓心を得られる存在でないと諦める、もしくは物体としてはなく安心できる対象が居ることで外からのことは気にならなくなるのかもしれない。

 

この観測する、される視点という観点は別に服だけではなく、自己観、ひいては自分の社会的行動にも繋がる。不法投棄が多い場所に目のステッカーを貼るだけで効果があるように、DNAに他者の目があるところでは影響を気にするという性質があるのが人。人の目なんて気にならないぜ、歩き煙草だってできるぜ、みたいな人は我が道を行っているのではなく、目を逸らしているというか、発達段階なのだろうなと思う。未成熟なオトナ。

 

観測されるということで現象が変わるというのは量子論だが、人にもある程度適用されるのは面白い。化学も現象を人が観察して統一的に説明する方法論を探す試みだから、人間自体と類似するのは当たり前か。

 

あれ、では、ずっと観測している宵顔さんにもなにか影響があるのか?

この人の存在が僕に影響を及ぼしているのかというと、完全に是。しかも良い意味で。

 

 

観測と言えば、mixiに雨天土日祝日以外毎日貼っているお弁当画像。ついでに母親にも送り付ければ良いのではという構想が浮かぶ。ちゃんとした物を食べているという意味でも生存報告にもなるし、毎日更新されるメッセージは安心するのかもしれないなと。孝行の外形はある。送るのは昼だから着信もなかろう。

 

僕のお弁当画像に需要があるお友達はなかなか奇特な人だが、この観測があることにより、おかずに「配色」という意識が付加される。別になくても良いことだが、この余計な意識というのが関係の醍醐味という気もする。いや色味を本職としている人に失礼なくらいのデザイン不細工感。お友達とも何か縁があるのかな。知らんけど。

 

ご飯は彩りよりも味。なんだか人はルックスより中身だと同じような言い回しだ。これを言う人ってどちらも味わっていない気もする。

 

安心はするものではなくさせるもの。

 

 

ヘーゲルさんの現象心理学がなんとなく分かってきた。真理とは何かというところで、「いま」でも「ここ」でもないものがそうだという説。検証するためには、書き付けて後からそれを見れば良いとのこと。例えば「いまは夜である」と書いて、明日の朝それを見たらそうでないとなる。現象は否定を含んでいるとかなんとか。

 

他の本で、この人が書いた「法の哲学」が出てきて、これは読まねばと思った。人はとりあえず物を所有することで価値を置く。僕は素朴な感覚的にそこが分かってなくて、いまの日本の民法や刑法の「占有」、「所有」の概念が難しい。お勉強しない限りはこんな概念には出逢わないし、感覚的に素朴に納得されていることだと思われる。外国語圏の人から見れば難しいらしい日本語の語用と同じように。

 

まぁ所有は分かり易いか。現実的にも法的(社会的)にも物を支配している関係。所有権の承認は、歴史の流れ。荘園制度まで遡りそう。

 

単に何かを持っているという感覚は占有に近そう。何か本を買ったとき、それを自分の支配圏というか領域に置いたこと自体に価値があるのは分かる。読めるのも使用という物の価値だし。でも、それによって人格として安心できるというのがよく分からない。

 

 

やれやれ。

 

WEBページの開設についての本を調べていたら、Twitterで一日一ツイート云々というのがあった。これもやってみても良いかも。いや、やってみたことあったか。繋がりが面倒になって辞めた。

 

人と人って、何で繋がるのだろう。

 

自分を認めてくれる人とか共通項なのだろうか。クララとお日様では、AFの主人公が社会的な関係はあんまり繋げてないというのを剥き出しにしている。いや、僕がそう読みたいだけなのかも。

 

いや、僕はあくまで読む人だから、読みたいように読むことはしないはず。

読む人って、社会に何にも還元できないなって思う。表現する人であればその人は誰かしらに感動を与える表現をし得るのに、僕にはそういう資質がなさげ。それなりにできうることはやってみるつもりだが。

 

僕が繋がっていると感じるのは、繋がりたい対象だからではないという矜持はちとある。

 

素朴が軽やかで良かった。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。