はっぴー

 

 

通勤路の田んぼの稲刈り、終わっていなかった。これ雨降ったら落ちないか大丈夫か。気になる。せっかく黄金色なのに。

 

帰り道。お月様と夜に縁が合った。青空には溶けておらず、黄色に白で縁取りした様相。雲が幾筋も手前にあって、ブラ、、、ブラインド。いや、風情を入れるのであれば、「雲の御簾に透けた月の艶やかなりけり」みたいな。

 

言葉の当て方はどれが適切かというよりどれが綺麗かみたいな基準の方が良いのかも。ちなみに古文の文法は知らん。笑

 

絵は、タブレット端末を導入しなくても、スケッチブックと色鉛筆で良いかもしれない。自然に行くと、何もなければ休憩なしでひたすら歩くから一服がてらスケッチしたい。心に浮ぶ言葉のスケッチは帰ってからでもできる。脳内日記帳みたいなものがあるため。

 

 

仕事。先輩男子はどうやら長期で休まざるを得なさそう。精神不調はどうしようもないというか。カウンセリングが想像できない。話すことが大事な人は無関係の安心できる人に吐き出すことは癒しになるのかも。どういう人がこういう風になるのかを想像したとき、例えば叱られようが失敗しようが世の中がどうだろうが、宇宙の事ばかり気にすることができる人ってそういうことにはならないだろうなとなる。何を気にするかも心が肉体に及ぼすコントールに含まれるのかも。

 

自分のことでないことは全部「かも」である。

 

女性上司がちょくちょく雑談を振ってくるようになったのもこの影響なのかもしれない。明日新しいことの研修があるとのこと。新しいことはウェルカムだが、給料上がるのかな、上がらないだろうな。モチベーションは左右されないが、どういう仕事場なのだろうという観測には上がる。何を成果と捉えているのかとか、業績とは何ぞやとか。

 

 

お昼のお弁当時間では、ぎりぎりの曇り空の下、お弁当画像を貼るついでに母親にも送りつけた。やはりきちんとしたものを食べていることと生存していることの報告が一挙にできてよろしい。美味しそう! というメッセージをいただいた。実際美味しい。副菜の緑の塊は、春菊の胡麻辛子和え。いつもは醤油を使うのだが白だしを使ってみた。白だしは風味の主張が激しくて調和を保つのが難しい。たこわさには良さそうだが。

 

さておき。

 

この辺りから頭の中へ。

 

世界が五感で感知できるものだけで構築されているのであれば、洞察を磨くのは色んなところに行って色んな人と接すれば良くて、本を読む必要はない。ただ、人間が現実として捉えている世界は、五感の領域だけではない。第六感みたいなことも含まれるが、そうではない、例えば概念とか常識とか当たり前とか。

 

第六感とされているものも、現代科学は解明しつつある。

 

Kindleで「魔術講座」という怪しげな本があって、最初の方だけ読んでみた。今なら普通に読めそうな感じ。「魔術とは、意志によって現実を変化さるもの」という定義があって、読んでいる人が覚えているか知らないが、僕がハリーポッターの「魔法」の動力源を考察したところに似ていて、やっぱりそうだよなと思った。なんか論理的だもの。

 

要は人間の可能性を開く技術とのこと。自分が変われば世界が変わる。

 

ここで、魔女ないし魔術、錬金術(鉛を金に変えるのではなく、鉛のような心を黄金の心に変える術だったらしい)が、異端とされたのって、人がちっぽけな存在だとした方が都合の良い権力があったからだろうなとなると、天動説とダーウィンの進化論、資本主義の採用も同じ系譜にありそう。

 

なんだか本を読みまくっていて現実と乖離している感がありそうだが、現実と非現実・神秘はきちんと分けることができないというだけで、自分が捉えている現実世界が空虚なものだとはしていない。こんなの道端のススキやセイタカアワダチソウを愛でたり、仕事場の人達の服装を眺めたりする叙述で明らかか。観測圏内だと女性上司だけが爪に化粧をしている。していますよねとは言わないが。

 

全部未分離で捉えられるのが人間の本来。

でも、現実と非現実があやふやになって自傷他害の方向になったら駄目なので、ちゃんとかえってこられるようにしないといけないって魔術本に書いていたな。トランスはほどほどに。

 

歴史にこびりついている人間の可能性の閉じられ方。

ダーウィンの進化論は競争と淘汰がメインだと思うが、この考え方だと世界は敵ばかりになる。という感じで、資本主義の導入もすんなりいく。DNAという言葉は遣われてないと推測するが、親の形質が子に承継されるという考え方はひな形になっているのでは。穿った考察だと、前近代国家がやっていた、身分制の固定化にもそぐう。

 

こう考えると、素朴な罪悪感も神話から刻印されたリミッターなのかもという飛躍。飛躍というか、遺伝とは別の環境としての承継。

 

ここで、「思考のすごい力」だが、人の無意識は6歳までに接した周りの人を含めた環境で構築されており、人の現実の95%を占めるとのこと。自分が無意識的に言動していることは当人でも把握できない。これを克服するためには、啓発本を読みまくることより、自分の動きを逐一意識すること。これはエックハルトさんの本。

 

だから、顕在意識がどれだけポジティブに生きようとしたってうまくいかない。僕の無意識もだいたい否定されてきたことしか覚えてなかったからセーブをかけていた模様。素朴にありがとうと言うのが恥ずかしいみたいな感覚はなかろか。僕にはあった。今はそんなことないが。

 

あと、細胞がエネルギー場に影響を受けるというのが科学的に説明されていた。波長を強める波と、弱める波。スマホの電磁波も影響あるとか聞くし、人は意識できる領域ではないところにいっぱい影響を受けている。

 

ここにどう思考が関わってくるのかというと、おそらく、思考することってシナプスが電気的な信号を繋げてするものだから、その電気的な信号は外にも影響するということ。もちろん影響を受けるのは内の方が強い。

 

悲しみは負の感情ではないとするのは、何かを大事だと捉えていないと起こらないことだから、完全な負の感情は怒り。怒りはエネルギー源として狭すぎる。テニス漫画でも描かれていたのだが、怒りはパフォーマンスを落とす。ということは周りのパフォーマンスも落とす。

 

あれ、ダーウィンの進化論の続き書いてなかったか。

生物の進化のプロセスを競争と淘汰するのは粗い。人間はもともと単細胞生物だった細胞が50兆集まった共同体であり、生態系の進化には協調のプロセスがあったということ。寄り集まって分化して役割分担をする。

 

これって、素朴な人に利他的衝動があるということにも一致しているし、僕が集団に居るときに制限かかっているとなるのも分かった。集団行動に一体感があるのってこの細胞由来なのだろうな。人間という物体自体、細胞がチームを組んでいる構造だから、ある集まりに属することに快感がある。僕は集団に指示する立場になればやっていたし。自我とは別の文脈。

 

個人の自我って歴史上かなり新しい発明品だからうまく扱えないのかもしれない。

 

最後。

 

締めのお祈りに人のハッピーをやたらと祈っているが、そもそもハッピーとは。

個人的な定義としては、なんらかの充足、目的と結果の一致みたいな感じ。

 

これは物体的な充足なのか環境としてなのか、色々個人的な定義はあると思う。

 

僕としては、ハッピーは要らないという立場だが、ハッピーが内側にあるとすれば、もうこれ以上は無くて良いいう意味で毎日ハッピー。

 

例えば、冒頭のお月様の美とか、お弁当とか夜ご飯がやたらと美味しいとか、宵顔さんの可愛さがおかしいとか、外のことに感謝できる内側になれたことがハッピー過ぎる。

 

では、おやすみなさい。

 

良きハッピーを。