現実と幻想

 

 

引っ張る人なのか押す人なのか。

 

 

 

そういえば、音には「無音」も含まれる。屁理屈ではなく、実感として。無音は音のない状態であって、音の種類の1つであろうなと。だとすると、音として返って来なかった宵顔さんも、存在としての心地よい無音を返してくれていたとも言える。ただ、これはバランスが悪いというか、これを実存として良いのかが定かではない。まさに、存在が波そのもので良いのかというところ。

 

本日はアリの巣を発展させるアプリをインストールして無課金でちまちま進める。アリ好き。蟻の行列を無心で眺めていたらいつの間にかたくさん噛まれていたとか、アリジゴクに落として実験(残酷)とか、アリジゴクを草で釣るとか。虫は種として遠いからあんまり生々しい生命感がない。グロテスクさという生々しさはあるが。だからこそ一寸の虫にも、という言葉があるのかも。

 

ゲームでは大昔、PCから移植されたっぽい、「シムアント」というピクミンとちょっと似ているのを訳も分からずやっていた。女王アリか戦闘アリか働きアリで始まって、それぞれのアリ性があるというゲーム。虫を倒すと黄色い玉(栄養)になる。

 

ハマると止めなく続けてしまって、突然パタリと止まる。

今回のアプリは無課金でしたというところで、もう少しちまちま続ける気はありそう。発展していくにつれ成長に時間がかかるようになってくるが、その待ち時間で他のことをしていれば良いし。

 

 

さておき。

 

ノルウェイの森」の上巻の読み返しが終わった。読んでいると、自分の中からぼそほそ言葉が聞こえてくる。音量もトーンも低いのだが、響く。そうそう、こういう本だったわという感じ。細々した描写とか言葉に反響しているのではなく、全体として、色々中身が反響する。例示。直子とレイコさんでワタナベを軽口で馬鹿にして肴にするシーン。どちらの性も友人として同性で集まるとパートナーを含めた異性を下げるよなぁ。こういう儀礼的やり取り(本気なのかもしれない)って、どういう起源なのだろう。

 

そうして、音ととしての波とか読むことにおける反響とか、コミュニケーションにおける鏡合わせとかを考える。「性愛と資本主義」のゲーム理論ちっくなコミュニケーション論で、論理記号が出てきた時点からあんまり読めていない。他者が内部に入ってくるとことは、相手の内部の宇宙に含まれることも含意していて、ここには絶対的な孤独が前提に在るみたいなことだと解釈している(今のところ)。

 

 

やりとりしていて興味深い人と言語上で会話しているときに、現実と幻想の境界についてのまとまった思索が起こる。物理的な物質も量子も統計的な配置でしか捉えられないし、人間一般を正確に捉えうるのも統計学っぽいし、だとすると、人が素朴に捉えている現実とはなんぞやという話。

 

 

僕の現実は、「だとすると、」の世界に在る模様。

 

いまの日本、昔の書物が検閲されていることはないから、時代時代の人たちの現実観がどうだったかという情報はあるし、背景の痕跡もある。昔の人たちは、科学的な知見が無い領域を、神様の領域としていた。どうでも良いが、キルケゴールさんがいまに生きていたら、宗教よりスピリチュアルなところで絶望を語るのではと想う。現代ではこちらの方が合理的な観。波動が科学的に証明されつつあるみたいだし。

 

こういう時、時代的に先んじているのはずるいと感じる。

 

ただ、昔の人の思想をそういうものなのだなぁって他人事で読んでいる場合ではない。自分の中にある当然にそういう領域はどこまで含まれているのかとして反響しないと本を読む効用はない。いや、厳密には効用を気にするという当然を排したから読めるのだが。

 

僕の説だと、現実はあくまで「可能的」なところで選ばれた範囲でしかない。生まれ落ちたときには現実はないし、周りが現実としている領域を学習することで現実観が構築される。発達心理学だったらもっと詳しく語るのだろうが、発達心理学も既定された現実観が実存しているとしていると思う。でないと成り立たないし。

 

ここの可能は、「できる」ではなく「でありうる」ということ。

当然に成立している世界観というのはもちろん大事。ただ、これはチュートリアルみたいなものでしかない。世界には自分以外の人が存在していて、いままで構築した当然の現実の外に生きている人も居る訳で、自分もそこで生きること「でありうる」。よほどの天才ならともかく、そこに動けるという可能性。

 

僕の歴史。

 

無茶苦茶山奥で生まれて、旧来の精神性的当然の世界観がまずあった。ただ、その当然の価値観ってどこから正としているのだろうという無意識の違和感があり、高2の時の英語の先生が、外の世界はもっと広いと言っていたところからなのか、実家から通える大学の選択肢はなかった。

 

で、広くなった当然の現実観でも、人は知っていることを現実としている。こんなのある意味不誠実ではないかと思う。親でも先生でも先輩でも情報量が多い方が正みたいな感覚で生きているような。正しい現実こそが幻想だが、幻想としての現実に縋らないと生きていけない。

 

現実とは、当人が現実として選んできた可能性の集積という定義で良さそう。

別にこの中に、希死念慮とか罪悪感とか後悔が含まれていても良い。ただ、当然の客観的な現実とはちと違うよなというだけ。

 

スピリチュアルっぽくするつもりはなく、ただの素朴。

 

罪悪感の概念って聖書からあるけど、これって人がもともと持ち合わせている性質ではなくそうしておいたほうが人をコントロールしやすいというだけなのではとなっている。法律に反することにこれを抱くようにした方が、ロジックで説得する必要がないとか。日本人はロジックに感情を持ち込むから議論は苦手な感。

 

後悔も、操作不可能な過去の世界線においてできなかったことに感情として同期して過去を悼む訳だが、当然そうしないこともできる訳で、単にそういう風に当人が選んでいるだけ。

 

単にとか書いているが、そこに当人にとって意味があるなら僕は感知しない。

 

人のことも世界のことも知ったかぶりしないのが僕の当然。

どちらも一生解読できない。

 

 

可能的世界における他人は、同情できる存在ではない。他人に同情できるって厚顔無恥というか、滅茶苦茶おこがましいと想う。それを選ぶならすれば良いが。

 

できることとすれば、移入だけ。

その人だとすればという世界。この世界観だからこそ運動できるようになったし、人のことも見える。

 

ある意味貴方のことは知ったことではないのだが、存在としてはきちんと見ているとスタンス。連動として他人を捉えることができないから、なんとなく相手には合わせられるだけ。

 

僕に同期できる人が居るなら、(略

 

だからこそのお祈り。

 

おやすみなさい。

 

現実とは当人が可能的選択肢から選んだ、単一の宇宙。

 

統合できますように。