夢も現もない

 

 

 

くすっと微笑が漏れて現実が加速する、そんな存在は楽しい。

品揃えて。

 

 

さておき。

 

明日から仕事のため今晩は副菜まで作った。白菜の浅漬け、鶏肉と人参とピーマンと玉ねぎのポン酢炒め。あとベビーリーフ。紅白も何も見てないが、充実した連休だった。これ以上休みが続くと頭のぐあんぐあん具合が大変。

 

日中は相続分野を一通り。最後の方は駆け足になったが、なんとなくは把握。あまり書くことはない。法律上残せるものは財産だけであってなんとも味気ない。し、相続人間の抗争(遺言書の改ざんとか)も想定されていて、自分が決めた訳でない関係には色々あるよなという感じ。

 

Kindle読み放題でも1冊読んだ。意識的世界の案内人、だったか。いわゆるスピリチュアル系で、分かるような分からないような。そこに行く方法は書かれておらず、ほんとに案内しているだけだった。意識の高次性は分かるが、もっと日常の言語に落とし込んでくれないと味が分からない。

 

平日は一息(30分)で眺められる量を増やしていかねばなという次第。本は読むものではなく、本を通した概念的な景色を眺める感じ。

 

 

そういえば今年は寅年なのか。何周目になるのだっけ(すっとぼけ)。

 

 

ところで、昨日のクオリアの話だが、個人的にはそれほど突拍子もないことを書いている気はしない。どうだろう。ただ、何か考えているという実感はなく、幼少期に言語化されずに残っていた疑問の発掘みたいな感じでしかない。

 

幼少期というか、自我が芽生えたあと、何か疑問に思ったことを人に聞くということをしなかった。調べることも特にない。自我が芽生える前の学習段階で、聞いても無駄だし調べても分からないと悟ったのかどうかは知らない。その後は無知を装って(いや無知はたしかだが)相手が知っていそうなことを質問するということはやっていた。処世術。

 

まぁ、把握したかったのは調べて分かるような情報ではなかった。

 

 

言葉の解釈が個人的な感覚でしかないというのは、普通に日常会話をしている分には現われない。語られている対象は客観的に存在しているというのが自明というか前提だから。

 

ただ、厳密に言葉を見ると虚構が入り込んでくるという違和感がたぶんずっとあった。同じ本を読んで感銘を受けたとしてもそのフレーズをどう捉えるかは当人が生きて蓄積した感覚に依る。実体験としても例えば、夏祭りで同じ花火を見た次の日、「花火綺麗だったね」と言い合うとき、具体的にどの花火がイメージされているかはきっと違う。いや全く同じとしても。

 

最も長く過ごした恋人さんはここに自覚的で、もっと擦り合わせることを楽しめたら良かったのだが、曇った僕は当時それどころではなかった。

 

こういう、ざっくりとした記号である言葉を介した虚構としての共有って、実は誰でも知っている当たり前のことで、これを踏まえて人はやりくり演技しているのかもしれない。と考えると、こんな既知を大げさに言語化するのは小恥ずかしくなる。

 

そうだしても、僕には世の中の隠れた前提を可視化する過程が必要だった。

舞台裏を語ってくれる人が居ないのであれば自分で見に行くしかない。

 

ここから、人は文章を読んでいるときに言葉の言語的な意味を追っている訳ではないという命題が出てくる訳で。クオリアとして読んでいるというのは、流し読みして読んだ気になるということではなく、色とか味を感じで捉えているのと同じく、言葉の意味も広辞苑的な意味を踏まえた感じで読んでいるという意味。色の知識が増えれば色の仕分けは細分化される。

 

「時間の終わりまで」からすると、人は物理法則から逃れられないが、学習によって体を組成する分子の配置は変えることができる。分子の配置を変えうる他人と接するのが良き。

 

 

この本で言葉の起こりの学説がいくつかあって、どれも面白い。

 

自然に情報共有として言葉が都合良かったという説は言語である必然性を語っていない。他の動物のように音波の種類でも良かったはず。

 

グルーミングの一種という説と、内省的概念の記述のためという説がどちらもしっくりくる。現代社会における外向性と内向性と相似している。ここから、言葉は関係において出てくるものだとう昨日の日記とも繋がる。グルーミングとしての雑談の6割はゴシップだという話だし、内向的な言語も自己との対話関係で行われるし。

 

個人的なところだと、自分に対して言葉を投げても返ってこないし、言語でやり取りしていない。誰かと話すときにももともと準備された言葉が発話される訳でもないし、相手の存在によって出てくる言葉は違う。言葉は基本的に読み物であると結論付けたい。対自分にとっても。へーこの人にはそんなことを発するのだという読者視点。

 

もちろん、全ての言語は僕として捉えられるものであって、そんなこと言ってないとはしないが。思想的な意味では進行形で変遷はしている。

 

 

その後に、何故「物語」が人類に生まれたかという話があった。

ゴシップの延長で、世界観の統一みたいな話かなと思ったが、他の説が出てくる。

 

物語によって、起こり得る現実を先取りするためという説。

これもたしかに面白い。童話とかまさにそうだし。これから生きていく時間と空間で起こりうる良いこと悪いことを教訓として語る。必ずしも一致しないのは、物語が生まれた時空と、読まれる時空が乖離しているからかも。こういう意味で活版印刷という発明の功罪はありそう。

 

だったら、物語の虚構性はどこから来たのかというのも気になってくる。非現実的な創作に浸る、浸らなければいけなくなったのは、物語としての表現が、現実から切り離されたといえそうだが、なんとなく、離れたと思い込んでいるだけのような気もする。

 

物語に語られる世界観で、完全に今の現実と離れている世界が語られることはない。そんなのは読者がついてこられない。現実とある程度繋がっている世界しか書けない。どうでも良いが異世界転生モノって、だいたい現実で不遇で転生してチートになるシンデレラストーリーが多い。

 

 

 

ここから、物語と現実を仕分ける意味はあるのかとか、そもそも現実と非現実とは、となってくる。

 

 

現実の感情の感じって、言語化することで仕分けしたつもりになるが、感情自体は言語には収まらない。留めたつもりになる現実とは、なんとも物語的ではなかろうか。

 

 

もっと根本的なのは、実体験と読書体験の仕分け。

都合が良いか悪いかで分けているということなのかもしれない。ただ、個人的には分かり易いかどうかでしかないというイメージ。

 

実体験だと、物理的な五感が総動員(?)されて、これが現実であるという体験が得られるし、これを現実であるとすることに違和感がない。他方、読書体験は文字情報を追っているだけで視覚しか使っていないから、当人にとって現実感は得られない。

 

でも、意識が体験として収納している記録って、それが現実であるかは問題としてない。

映画とか演劇とかも体験だし、体験として優先順位を付けるのは、当人の意識がそれを現実としているかどうかという区分けでしかないのでは。

 

現実は残る、非現実は通るだけという考え方はありきだが、インターネット世界での関わりはどっちになるのだろう。実際に会うまでは非現実?

 

現実を大事にしろなんて言われたことはないが、現実を大事にしている人が他人を実存として捉えているような感じはあんまりしない。

 

という感じで、物語も実生活として読めば良いだけではという提唱。

相手が現実的に生きているかどうかは問題にならない。やり取りしたから相手が分かるでもないし。実生活で誰かの発言の意味を考察している下りを見たことない。

 

ともあれ、僕は自分にとってブースターになる存在と現実・非現実問わず関わっていたいところ。デレられたら照れるが。

 

 

客観的な現実なんて存在しないで良いとしたい。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。