恣意

 

 

更新されない思い出は呪いなのか。個人的には記念碑っぽい。

 

新刊枠の小説で架空の幼馴染が放課後に流れる蛍のひかりで替え歌を唄った時に、離れてしまっても蛍のひかりを聞くたびに私のことを思い出すなんて呪いみたいねと評していたシーン。あれ、なんだかデジャブだと思ったら誰かさんの、元カレとその上司のブログにもそういうシーンがあったような。たしか元カレの上司と誕生日が同じか何かで、私と別れても上司との交友関係は無くならなくて、上司の誕生日の度に自分を思い出すだろう、勝った、みたいな話。

 

一生忘れない(悪い意味で)。というのはあった。下世話なことなので書かないが、最も長く過ごした恋人さんはあのエピソードまだ覚えているのだろうか。最中に寝るとか屈辱以外のなにものでもない(だいたい書いている)。

 

ここでの存在の捉え方って、とても現実的というか、「出来事」的。自分のこともこう捉えれば、相手の中に出来事として残りたいという衝動は分かる。自分録の集合が自分だし、他人録の集合が他人。

 

僕は存在と記録は別ものと捉えているから、思い出話に花を咲かせるみたいなことはなんだかもったいない気がする。存在は記録して残せない領域にもあるものだから、たまたま現象になって観測できるものが記録に残るが、記録の行間の方が大事。

 

更新されない思い出に対して後悔があるって、現実上も時間を遡ることができるような万能感とセットなのではないか。万能というか、情報を知った後で遡って判断するズルというか。自分に対して不公平ではある。

 

さておき。

 

通勤の道中の畑。柚子やら柿やら収穫時を過ぎて、たわわに実っているのに果実がぽろぽろ落ちている。同じくもったいないなと思ったのか、散歩中のお爺さんがフェンス際の柚子をつえの先でつついて隙間から取ろうとしていた。天然果実の所有権は畑の所有者にある訳で、収穫するもしないも自由。植物にとっても、人に食べられるよりはそのまま地面に落ちた方がマシかもしれない。種がカラスや雀に食べられて運ばれる可能性もあるし、生ごみとして焼却処分されるよりは繁殖できそう。人間に保護された時点で種が途切れないのは確立されているし、あとはどうでも良いのかもしれない。

 

と、考えていて、人間の価値観というのは恣意的でしかないから、物事の捉え方くらいは社会の中ではなく自分の中で恣意的にしておこうと想った。

 

仕事は特に何もない。一瞬、こんなことしていて良いのかと思ったがそれはそれとして。人って面白いなと、職場の人たちの人物像を日々(勝手に)更新している。僕が独り身で特に寂しくないのって、仲間内の範疇を具体的な僕と接する人より拡げているからかもしれない。無関係な人でも親身に気になる(気にするではない)。

 

上司の平熱低すぎだろう、大丈夫かとか、上手くいったら無邪気に嬉しいよなとか、視点がどこ目線か分からない。また同期と少し話した。この人こんなに柔らかく話す人だったっけと思ったが、僕が柔らかくなっただけなのかもしれない。いや、一対一のときはこんなものだったか。特に下心は感じない。人が誰かだけにしか見せない像があるのを実感しているから、存在を画一化できないのかもしれない。

 

ペルソナというよりは入れ子なのだろうな。

 

やれやれ。

 

もう木曜日も終わってしまった。土曜日に平家物語をモチーフにした演劇を観に行くのだが、予習し切れない文量の平家物語。盛衰の物語で、もち上げるパートが読みにくい。「果ての無い物語」の主人公が無双するパートが読みにくいのと近い。この本を教えてくれた人が、そこを耐えれば面白くなると言っていて、たしかに面白かった思い出。

 

まぁ、ほぼまっさらで観劇するのも良い。

本日卵を買い忘れた自分も赦すし、自分に対して義務を設定しないようにしている。自己評価上、それをしないと現状維持できないという部分については手抜かないが、社会上それをしてないことによって悪評価になるということについては特に気にしていない。部屋は汚いが弁当は毎日作る、かといって健康至上主義でもなく煙草もお酒も飲む。

 

自分に対してすら放任主義

 

出来事の捉え方の恣意性の延長に時間の捉え方があるんだなと思った今日この頃。社会的な時計時間は何をしてようが勝手に過ぎていく客観的なものなのに、あえてしんどい時間を長く捉えるとか、楽しい時間を短く捉えるとか。体感時間は客観ではなく主観だろうに。自分の時間軸に対して色を付けるというのは、分かるしせずにはいられないこと。

 

個人的なエピソード。

僕は、仕事が終わったらすみやかに帰宅して専門書を読む時間を作りたい。今は民法不法行為と、刑法総論をセットとして読んでいる。社会的な迷惑の限度がどこにあるのか、そのモノサシは何になっているのかとして読むと面白くて。

 

急いで帰りたいという感情が起こるのだが、信号とかスーパーのレジ待ちの時に急ぐ感情は使いものにならないよなとメタ的に捉えてしまうと、感情とは離れたところで冷静になった。ここの急ぐ感情って、主観的に急いでいるという自分に示す証拠みたいなものでしかない。

 

意識的に言語化される感情は大事なものではなく、どう自分が現象化したかでないか。記録大事説が再浮上してくる。出来事が大事なのはその時にどういう感情だったかとは離れたところにある記録であって、感情とは無関係。

 

感情とされる心の動きが自分であるというのは時間が客観的と同じ意味でのフィクションな感じ。心の動きにはもともと名前が付いてない。名前を付けるのは共有化するためだが、味と同じで名前が付くと、誰かの中での感情に還元されてしまう。それを共感と呼ぶというのは粗い。

 

 

別にフィクションであろうがなんでも良くて、本筋は、当人がよりよく生きられるようになるかどうか。

 

この「より良く生きる」の観念もやっかい。

キルケゴールさんの「死に至る病」では、アイデンティティと絶望がセットになっているという話があり、悲劇の主人公である自分を存在とするという観念は現代の現実でもありうる。自己観が不幸であることと癒着している。

 

この自分って、より個人であることを求めていない。

にも拘わらず、世界観は天動説から発展していないという。自分を中心として世界が回っている。

 

この話、なかなか面倒くさい。

僕は言葉世界では自由であるし、現実世界でもまぁまぁ還元されている。

不幸でもないし、幸福でもない。

 

物語を読む効用って、自分の軸がズレることにあると思うのだが、ここで話が通じたことは無い。感動ではなく日常で。

 

はい、おしまい。

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

ついでに面白い自分でありますように。