神秘

 

 

 

まだ木曜日。あと一日ある。日々がほんとに早くてこのままだと一生があっという間に終わってしまう。過去でも現在でも未来もないところで。何も付けなくて良い世界にとても寛ぐ。

 

記憶の概念がどこかに放り投げられ、過去の垣根が取り払われつつある。ワーキングメモリってなんだっけ。これは現実で検証しないと微妙なところ。どうでも良いが、昨日のみかんの皮の後、薬局で入浴剤を買った。その時前に並んでいたショートカットのお洒落な女性。蛍光色のスニーカーと丈が丁度良いボトムと云々。今気になるのは、「6」と書かれた布地の正方形のピアス。どういった意味があるのかは知らないが、何故か目に入った。

 

あと、これは今日の話。会社のエレベーターで同じ階のオフィスの男女の社員の雑談。女性「これからご飯ですか」、男性「もう食べました、弁当なんです。節約できて良いですよ」、女性「良いですね、奥さんが作っているんでしょう」、男性「いや、自分で作ってます」、女性「私にも作ってもらって良いですか」、男性「いや日曜日に多めに作っているので週末近くなると貧弱になって、、、」

 

ここからどういうメニューを作っているのかの話が展開していた。茹で卵をみりんと醤油に漬けるとか、ひじきと小松菜の副菜とか、なかなか美味しそう。うん、聞こうとした訳ではなく、聞こえてきただけ。

 

あとこれも今日。空中庭園がいっぱいだったから、広場の前のベンチで食べようとすると、広場には赤い帽子を被った幼稚園児が満載だった。曰く、「秋探し」をするらしい。注意事項その1。生えている草や花はちぎってはいけません、木の上にある物を取ろうとして木を揺らすのもNGです、拾って良いのは落ちている物だけです。その2。動いて良いのはあの柵までです。その3云々。やたらとハイテンションな男の子が居て、「これはちょっと楽しそうだぞー!」と連呼していた。良き。

 

時間も意味も気にしない方が日々は残っていくというか再現されるのではという気がする。法律学界隈もくつろぎながら読めるようになってからの方が全然読める。記憶とか想い出ってって時間に区切りがあるからこその概念よな。これも要検証。重要だから覚えているのではなくて、自分で在ることで世界に対して軽重を付けるという無駄なエネルギー消費がないゆえに、加工されずに残る。

 

本日を逆再生していたら、最近一日の始まりが楽しいという気持ちが出てきた。誰かさんのおかげ。

 

人間の脳は正確に映像を再現できるほど精緻ではなく、意味のまとまりとして収納している。専門用語だとチャンクというらしい。僕もそれほど精確性は気にしていない。

 

さておき。

 

安心感の本が気になって少しずつ毎日ぱらぱらしている。曰く、自己肯定感が低い人は、自分がどうであるかより、他人が自分に対してしてくれたことで自分の価値を決めるという節があるらしい。僕はこれ駄目だった。ここに合わせようとすると逆に分裂して、人に対して何もできないし、何も見えない。直近の恋人さんとお別れするちょっと前、プレゼントをした。同じデザインでピアスとイヤリングがあって、恋人さんの耳に穴が開いているか分からなくてイヤリングした。実際はピアスの方が正解で、ほとんど盲目といって良いくらいの視界に生きていた。バランス悪すぎる。

 

あと、自分にくつろげるようになってくると好きなことができるとのこと。今の僕は日常のだいたいが好きみたいなところがある。本日の夜ご飯もうまうま。赤パプリカのマリネも美味しいし、中華仕立てのケチャップ炒めもうまい(ちなみに昨日のメインはカレー粉で味付けした)。この美味しさは、自分が時間とエネルギーを消費したこととは連動していない。

 

本日の月も美。満月近く光量も凄いのにキュッとしている。ツバキ、猫、いつも行っているスーパーの店員さんの個性。個人的にはメガネの店員さんが一番丁寧と早さのバランスが良くて好き。最後に毎回一礼してくれるのが嬉しい。最近当たる店員さんも早さ重視なわりにきちんとしていて良い。やっぱり若さって世界に対して真摯で居られる期間なのか。僕は進行形できちんと世界が見えるようになっているからなんとも言えないが、経年によって自分の世界が固定化されて外が新しく見えなくなるというのは傾向としてはあることなのかもしれない。

 

これは別のところで見た記事で、何かをしている時に「生の実感」があるという話。理解はできるし、そういう生き方は悪くないとも思う。ただ、僕が生きているところとは全然違うのはたしか。特定の何かをしている時空の中でしか生を感じられないのって、トッポのチョコが所々しか詰まってないイメージ画像が浮かぶ。

 

むしろ、何もしていない、何事も起こらない、何にも依拠していない時間の方が人生の中には多いのだが、有事ではない時間を楽しむのが生の本質だとしている。楽しむという言葉も玉虫色だから、ハイテンションになるとか良いことがあるとかというニュアンスがなきにしもあらず。個人的には自分のなまもの性と一緒に過ごすというか、自分という同居人に馴れることというか、要は、自分だけで十分だとできること。人は1人では生きていけないのは分かるし、そうだが、中の話。誰かに認められるとか貶されても全く連動しなくて良い自分の存在を捉えること。

 

これって簡単なようでかなり難しい境地なのかもしれない。

僕は自分にも世界にも緩いから、○○であるべきという規範を放逐できたが、べき観はとても曲者。自分も縛るし他人も縛る。

 

この、自分で十分ということがあって初めて世界と関係できるような気がしている。

 

ただ、最低限の規範として、人妻は口説かないという銘がある。いや厳密には口説いたとしてもそういう関係にはならない、か。何の話か不明だが、恋人関係にある人の浮気相手にはなったことはあるが、不倫関係は歴史上ない(いや、厳密には)。これってなんでかと考えると、法律関係でややこしいというのではなく、結婚は自分の意志で決めたのでしょうというのを読むから、強制されて決めたわけでも無いのに他責にするのは何か変だなというところ。背徳を好むのは子供の領域では。やっちゃいけないことをする快感みたいなやつ。

 

意志の実存は自分の中では信じてないのに、他人の中にはあるとするのは、そういう風にしか捉えられないから。

 

なんだか変な話になった。

 

要は、自分の解明は世界の見え方に連動するという意味で自分本位にはなりえないということ。僕は、周りの人が世界を新しく見ることを辞めたのに付き合っていたが、それを止めてもっと見て良いよとした自分に対してストレスフリーになっている。何かを書くということは伝えたいことがあるに違いないも自分の中では嘘だとしたことによって書けることが増えたし、人に対しても書いても良いのかとなった(諸刃なのであんまりやらないが)。

 

はみ出して人を見ていることと、はみ出さずに自分を見られていることの調整。

 

「線は、僕を描く」で、非言語による疎通とか、世界をあるがままに見るみたいなことがああり、そういうことだよなと。

 

でも、こういう感覚はあくまで普通のことなのかもしれないという疑念もある。

いや違うのか。僕は別に誰にも肯定されなくてもこの自分で良いし、肯定されたところで特に嬉しいこともない。そうじゃなくて、僕で嬉しくなってくれるのが良い。ニュアンスの違いでしかないが、機微は大事。

 

自分を許すということは、世界を許すということ。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

 

良い夢を。