態度

写真

 

 

世界は不可思議で満ちている。クスノキ先輩の公園で弁当を食べたとき、ベンチの真ん中に置いてあるみかんの皮。このベンチにはマナーが悪い人が常駐しているらしく、買った弁当のゴミが放置されている。とはいえ、このみかんの皮を見たとき、なんとも言えない不思議な感じがした。今言語化してみる。剥き方が神経質というか丁寧である上に、置いてあるのがベンチのど真ん中で明らかな意図を感じる。こんなにきちんとごみを放置するのだろうかというアンバランスに対する違和感。

 

本日ずっと別のことで自分の中に変な感じがあったことの現象化だろうか(ちっともそん思っていない)。この変な感じは別にわるいものではないが、こんな変な感じが一生続くのか、なんとも。とは想う。

 

前置き終わり。

 

「現象は、外側にしかないのか。内側に宇宙はないのか」

やっぱり「線は、僕を描く」良いな。内側の宇宙に気付いたときの変な感じ。

 

 

ちょっとだけ仕事の話。ほんと一瞬で終わるし、何も堪えてない。ちょっとしたクレーマーっぽい人に当たり、概念が分からないと言われて先生に聞いて説明したことに対して「全く意味が分からない」と言われた。これに対して、僕は説明が不十分だとは思わなった。理屈を理解したいのではなくて、結果が気に食わないだけだから何を説明しても無駄である。概念とかいうマジックワードを使っている辺り、自分はカシコイと認識していそう。ほんとに教えて欲しかったらそんな風には聞かない。ただ通り過ぎた人物。

 

言葉遣いを読んで人を見た方が僕にとっては適切なのかもなとなっている次第。僕の言葉遣いをメタ的に読むと、ほんとは人に言葉で寄り添うことに価値を全然置いてない。ある意味存在に対して失礼なのではと思っている節もある。ただ仕事のスキルとして使っているだけ。寄り添う言葉よりより分かろうとする言葉を遣う。今日は○○さんにばっかり当たって良かったと言われた。慮る(甘やかす)言葉が良い言葉とは限らない。聞く方が大事なこともある。自分になっていくのは楽しい。

 

ほんらいは、気付いているという言葉も遣わずに態度で示すたち。でもそれでは伝わらないのだよなというは分かってきている。これを他人もできるものだとしてしまったのが歴史上の悪手。モノサシの合わせ方はすこぶる難しい。

 

モノサシの合わせ方と言えば、世界との繋がりも厳密に考えると難しいよな。美との共時性は繋がりとして良いとしても、悪いことが起こったら良いことが起こるというエセ確率論も不適切だし、良いことが起こったら悪いことが起こるかもしれないと不安がるのも不適切。あんまり都合良く捉えるのも天動説だし、あるがままに尽きると植物みたいだし、ということをみかんの皮と相席して弁当を食べながら思索していた。

 

具体的な他人とか社会一般の意識的な水準に合わせないようにしながら自分で居られるのはなかなかの神業というか職人芸の領域なのでは。

 

職人芸と言えば、一般人の中で歌が上手いのは良く発話している人だというのをずっと前にどこかで読んで何のことやらと思っていたが、声は制御できる人の動きの一部であるとすれば、そりゃあ日ごろ声色を使っている人が上手いのは当たり前。連休後の仕事とかめちゃくちゃ鈍っているし、日常で使っている強みというは確かにある。もちろんその先にはセンスと意識的な思考錯誤が必要。

 

ということは、文章もそうなのか。試行錯誤は微々たるものとしても、毎日2,3千字書いていることにより、文章としての言葉を扱うことに馴れてきているのは確かにある。ネタを見つけねばみたいに日常を過ごしていないし、言葉と自分が見たもの、自分の中の宇宙のスケッチがそれなりに同期はしてきている。まだまだだなというところとしては、時間の移り変わりみたいな部分のスケッチが粗いなぁというところ。いや、でもここも書けるようになったらもはや日記でもエッセイでもなく短編小説みたいなものになりそうではある。

 

小説の本質とはということを思索したとき、事件のインパクトでは決してなく、淡々と流れる変化の機微の筆致なのではという感じ。有事のエピソードではなくそれまでの変化がない日常をどれだけ読ませるのか。プロットではなさそう。少なくとも僕に残っている物語はそういうもの。読み手の視線だから書き手だとまた変わるのかもしれない。別に書きたい物語がある訳でも、、あるか。雨をモチーフにした物語。

 

「線は、僕を描く」はなんとも心地良い。水墨画展に行ってみよう。僕はもっと芸術に触れないといけないらしい(衝動)。芸術はすべからく読み物だし。心地良いのは、人と人が通じる手段に言葉を置いていないところ。言葉の前に何かがある。

 

どうでも良いが、主人公が連絡を返さずに練習に没頭していて「死亡説」が流れたというエピソードがなんかええなぁとおもってしまった。仮に僕が日記や私信を送らずに現実世界に没頭するということは自由で、それはそれで試行錯誤の一種であり関係をないがしろにしている訳でもない。でもその間の時間の流れは読者さんには見えなくなる訳で、若干意地悪な感じがしてしまう。本来こんなの意地悪でもなんでもないのに。読み手として世界を捉えているからなのかも。

 

表現物としての自己実現の意志は全くないが、僕を使った表現物による波紋がどうなるのかみたいなことは気になる。僕は唯一自分の文章の純粋な読み手になれない。

 

あと、この本で、「運命は常に態度を求めてくる」というフレーズがあった。現象は自分の宇宙の中で通り過ぎて行くし、自分を動かして行くしろ、その中でどうするのだというが態度の表明。僕もいい加減態度は決めることにしようとなったら、変な感じがしっくりきた。とりあえず、資格試験は受かることにする。資格が取れた後は未定で。

 

ところで、安心感の話。

昨日立ち読んで気になってもう一回ぱらぱらしてみた。曰く、世界に依存している人は、誰かが自分に何をしてくれたのかとか、自分がどう評価されているかという意味で人を気にするとか。

 

僕もそういう意味で人を気にしていた頃はあった。これが拭われた後でも普通に人のことは見ている。でも、これは気にするではなく気になるだから、全然概念的には別物なのだろうなとなった。自分とは無関係に気になることを気にするに流用していたらしい。人を見ようとすることは、すなわち自分と関係していることだ、故に自分は自己観と連動して人を気にしているという感じ。

 

現実世界ではそういう風に語らないといけないから発話できないのだよな。

誰かに何か無関係な話題を振るって、結局それに連動した自分のことを語りたいみたいな手段でしかない。ふと、古参の先輩にそろそろどっかに出かけましたか、紅葉見ましたかって聞きたくなったのに止めてしまうのはこういうところ。まぁ発話してもしなくても自分であるから不自由はない。こういう風潮無くなったら良いと思う。でも語りたい自分が自分で在るという観念は拭えないだろうな。だってそれが現代社会における個人の定義っぽい。

 

「外側にしか自分は居ないのか、内側に自分はないのか」

 

1つ、知覚に関する不可思議。「脳の中の幽霊」で事故に遭って、半分の視界が失われたっ人が、見えない死角の物の位置を無自覚に捉えているという話。これは完全に医学的に検証された現象だから、受け入れないということはできない。とすると、知覚における脳の操作を考えざるを得なくて、自分の知覚もバイアスがかかっているということを疑うべきとなる。この理屈は厳密に論理的ではないが、納得できないとすれば医学的見地より自分の経験則の方が重いとしているだけ。

 

この脳のバイアス、細胞の制御があるにしろ、僕はこの自分の存在で楽しんでいるから何でも良い。月を探してしまうのはなんの意味もない知覚なのに付き合ってくれているみたいだし。

 

どんどん人と離れている感じだが、本来は人と人は別物であって別の惑星みたいな存在で良い。場の重力で留まっていたとしても、それはいつ離れてもおかしくない存在。だから関係が楽しい。

 

別物だから蔑ろにして良いということにはならない。

 

はい、寝ます。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。