ただの人

 

 

「書物を捉えるのは孤独な脳だが、映画を捉えるのは、何千、何万の耳と目だ」

 

進んでいるのか戻っているのか、素朴な自分の感覚に傾くと時間という概念はとても不思議だ。戻っているというよりはもともと自分の感じに従って良いという気付くための時間。ずれているから、あんまり貫徹できるものではないが、まぁこれで良いのだろう。

 

客観時間、もとい季節は円環。通勤路にある田んぼが今年もそろそろピンクの絨毯を敷く。季節は巡るが、僕は巡らない。あと1回くらいしか見られないということを決めた。

 

さておき。

 

仕事で発話を扱っていると、これがどれだけ必要な概念ではないということが否応なく気付かされる。話したいとか、話すことで自分が伝えられるとか、話すこと伝えられる自分が在るという概念を持ちうるというのは一種の才能である。サッカーの漫画で、「才能とは自己証明だ」みたいな話があったが、たしかに存在証明のために何かをするということはできないなぁという感じ。

 

自己主張ができないとかそういうことではなく、中に主張したいことが何もない。主張するって、端的に言えばお互い持ち寄ってより良いものをということではなく、相手に場所を取るみたいな意味合いだと思うのだが、素朴にそういうことが思えないらしい。凪いでいるだけからかもしれない。

 

あと、自己証明。証拠とは何ぞやという法律における裁判で考えたとき、2人以上がそれを事実だと認められるために用いる情報みたいなことだろうなと考えた。法律学の本にはあまりに自明過ぎて書かれていないが。そうして、この「事実だと認められる」ようにすることが証明だとすると、自己証明とは、自分と自分以外の外とを一致させるという意味合いがあるはず。僕には証明すべき自己観みたいなものが無さげだから、自分の挙動を見た人の中に勝手に形成された僕が居てしかるべきなのだが、自己観と他人から見た自己の一致をすり合わせるために会話があるのかなとふと思った。

 

僕が常々抱いている罪悪感ってもしかしたらこの辺りにあるのかもしれない。自分自体を規定されうるものとしていないから、別に幸せである必要も物的満足を得る必要もなく生きていけるばつの悪さ。これだと相手の存在もまるっと受け入れることができるが、僕が受け入れるその人は、この関係上だけのそれだから、何か相手が過ごしている世界観と違う。

 

固執しないと大事ではない、なんてことはない。まぁ、こんな感じだから、飽きられたら慣性に従わずきちっと切り替えなきゃなきゃとは思う。吹っ切れることと諦めることはとても似ている。

 

僕の自己証明は、書物を読む孤独な脳で完結できるから何か別の人を要したりしない。寂しいとも思わない。なんなら現実的な関係より存在的に濃厚接触していると思うし。ただの近い他者なぞ要らない。

 

ともあれ。

 

世界文化史。

 

諸子百家も読まなきゃいけないなと思う中国文化史。孔子の「仁」の観念が面白いというか、時空を隔てても同じことを考える人が居るのだろうなというシンクロニシティ。曰く「愛」であり、他人を自分と同じように評価したり扱ったりすること。これって当たり前だろうなんて思える人はきっと全くできていない。性善説とか性悪説とか中庸とか、諸々一種の思想の「型」なのだろうなと思う。自分と一致するものを読み求めている訳ではないから、この普遍的な類型はなんなのだろうなと考える。

 

メディア論は、本格的な専門書が読みたくなってきた。文字メディアから技術メディアを経て、今は伝達メディアになっているという話はよく分かる。

 

伝達メディアは、テレビとラジオで、現時点では古いと思うが未だ固執している人も居るのも分かる。僕のテレビのイメージは20年くらい前の、テレビを見ていないと教室の輪に入れないみたいな文脈なのだが、職場でも感染がどうのこうのという話題の輪を作っているところを見ると、全然変わらない模様。伝達メディアと文字メディアの違いは、特別に頭を使わなくても勝手に入ってくるし、他者と共有できるということ。確かに五官(誤字ではない)の中の目と耳はかなり無意識的に世界を採り入れられるし。テレビを流していないと世界と繋がっていないという観念も分からなくはないが、ほんとにそんなことに時間をつかっていて良いのかなとは思わなくもない。

 

ここからさらに進んで、芸術メディアという一回性の芸術を複製できるようになる発明。冒頭のはこれなのだが、映画という何回でも再生できる芸術ができるようになったのは技術の発展ありき。音楽ももともとは一回性のものだったのだろうな。

 

もっと進んで、こういう複製できる芸術メディアが国民の思想形成に使われたというのがなるほどなと思う。勧善懲悪とかダークヒーローとか、否応なく価値観、ひいては世界観を誘導する。

 

カントは、世界を認識する前提には個人の概念があるという図式を提唱したのだが、現代はこの世界を捉える概念がメディアになっているのもとても分かる。自身で自分の概念を考え抜かなくても世界観を誘導してくれるメディアがいっぱいある。

 

僕はメディアから自分を変化させることは厭わないが、誘導してくるものに対しては敏感に反応する。哲学者の書物って、あんまり自分が正しいとは思っていないような気がしないでもない。

 

新刊枠は、全然引っかかるものがなかったからえいやーで買ったら文庫本なのに1400円もする代物だった。星さんみたいなショートショートなのだが、企業体への怨嗟が凄い。某ちゃんねるの小話を読んでいるみたいな気分になるが、シーンがなかなか生々しい。

 

という感じで、僕は自分を証明する必要はなく生きているから、別に誰かに認めらる必要もない。

 

おしまい。