生き方

 

 

 

土曜日は動き出しが遅い。水墨画を展示している場所を調べたところ、どうやら京都の寺にあるらしくギリギリ間に合うかどうかのタイミングで出かけた。動いてみることが大事だから間に合うかどうかはどうでも良い。

 

ネット情報上では間に合ったはずだが行ってみると美術館の場所が分からず、何か境内の拝観イベントをやっていた。紅葉が美味しい。寺ともみじの取り合わせ。良く動いたなと満足し帰ろうとすると一覧図があり、美術館の場所が分かった。あと11分、間に合いそう、と小走りで戻ると閉まっていた。まぁええか。

 

我に返ると勝手知ったる界隈で、通り過ぎながら御苑の古木に挨拶。熟年夫婦の会話が流れてきて、なんで貴方はいつもそんなにネガティブなことばかり言うのって詰められている。なんかポジティブを装っている人に対してはネガティブなことを言いたくなってくるよな。知らんけど。

 

鴨川沿いを歩く。カップル然り、そこだけで世界が閉じているような空間を作っている人達が多い。丸善にて三冊購入。用事が終わって駅に向かう頃には真っ暗で、これから夜の街を楽しもうとしている人達で賑わっていた。遅く広く歩いている人達とか、突然止まる人とか、なんなのだとイラっとしそうになったが、「人」と思うからそうなるのだよな、自然と捉えれば思った通りに動いてくれるはずがないし。すんとなる。自然だから蔑ろにして良いという規範はないため問題ない。

 

京都で見た月はとても大きく鮮明だったが、大阪に着いて買い物帰りに見えた月は光量でぼやけている。人間の視覚の神秘。カメラで撮っても月は目で見えるように撮れない。自然も画像で見れば明るく見えたり、僕が見るより良い感じの風景に見えたりするが、これは構図に意識が影響しているとかなのだろうか。もちろん上手く撮ろうとしてない。でもそこでその時撮ろうとした何かがあるのだろうな。

 

まなざしが存在の本質に近いのかなぁと想うのは、ちょくちょく読んでいる、「非二元論」の本達。曰く、何かと独立した存在としての自分は在らないということで、なかなか大事みたいな話だが、なんてことない素朴な話な気がしている。全てが幻であったとしても人は生きていけるし、あとはどう決めるかというだけ。

 

例えば、帰りに隣に座ったまぁまぁ経年してそうなカップルが、「車内では会話は控えて下さい」というアナウンスが聞こえないのか我慢できないのか、かなり大音量で話していた。向かいの学生カップルは呟くように話しているというのに。女性の方が転職するとか言っていて、自分はいっぱい耐えて見ないようにしたが「人間は理不尽には耐えられない」とか宣う。これを聞かされる理不尽を感じる僕は人間ではないのかとか言いたくなる。この人は自分の環境が理不尽であるという世界に生きていて、他の他人は人間ではないらしい。

 

別にこの人を否定している訳ではなくて、こういう世界の見え方の絞りが自分の為に生きるということなのかなと思っただけ。こういうのに迷惑だという世界に生きるのはこの人の為に生きているということになる。

 

このカップル、赤ちゃんの泣き声が響き出すと何故か静かになった。赤ん坊の泣き声は脳的に不協和音なのだっけ。

 

僕はどういう自分の現象も自分の為で良いから、対価とかが面倒だなと思っている。スーパーでうどん用のあげを補充し過ぎたらしく、1個地面に落ちていて戻すかという所作を店員さんに見られてしまい、すみません言われた。いやいやとかもぞもぞ答える。内心、見られないようにできなくてすみません、です、はい。

 

加えて、哲学者が学生用に書いた「考える」についてのkindle本。自分が上手く考えることができていると思い込んでいるオトナは手遅れで、上手く考えられているオトナはこの本は読まない、でもオトナは「良く考えろ」というだけでその方法を教えてはくれないよね、という感じで始まる。

 

曰く、思考とは、漫画で描かれる点線のふきだし。人は考えずに行動することがない。

まだ最初の方だが、これは人間としてそうしたいというだけだと想った。

 

世界をそういうものにしておきたいという観念。

点線のふきだしのほとんどは「既に決まっている」もので、考えた末にそうしたというフィクションな感じ。

 

まぁこれも僕の世界のことであって、自分の為に生きるということはそういうことなのかとなって、また軽くなる。

 

非二元論が言う、全てが幻で意味がないということは、世界において自分をどう位置付けるかに操作性があるということ。あくまで自分が見える世界が上限なのだろしたたら、読むことはその上限を突破して次の瞬間がより読めるための道具になるし、読み返すことは記憶を辿ることにはならない。

 

それに、これも薄情と捉えらるかもしれないが、誰かを視点とした他人観も幻想とすると、誰かが捉えている僕に付き合わなくても良くなる。それでも接したいという人だけ残る。

 

僕は関係していることに対して重きがないから、問題とするのは、自分がより動けるようなエネルギーの発生源になっているかどうか。安定は慣性でなんとなく上手くいくからそういう話ではない。自分の為に生きるというのは、誰かの中の世界観に付き合ってあげなくても良いということなのか。ちなみに、誰かに自分の世界観を付き合わすこととも違う。

 

なんだか誰でも当たり前にこなしている人生というタスクにやっと辿り着いた感。

人の読み方の解像度はもっと下げて良いのか。

 

僕の人の読み方は小説のようだし獲物を探るような本能的なものではない。(流用はできる)。もっとフラットに均すべき。

 

僕は基本的に世界を恨まないし、導き的な存在として人を捉えている節がある。

全部読み物の中に一緒に過ごしてみたい人が出てくるのか。

 

無理に出逢おうとしなくても必要であれば自然と顕われるだろうなという世界観。

 

人は皆自分の為でしか生きられないのだから、僕もそこに倣って良い。

 

ふわっふわ。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。