足りている

 

 

本日も存分に遊ぶ。

 

折りたたみ傘で対応できるような小雨。満月さんは雑務を後に回す派とのことだが、僕は先にすることもあるし、後に回すこともある。むかーしの夏休みの宿題は最後の2、3日で終わらす派だった。絵日記も含めて。

 

これって今想うと、ただこなしただけで褒められる躾というのに向いて居なかっただけ。ご褒美とか知らない。でもこの精神的価値観ってそういう風に教育されているからそうとう根が深い。あんまりゲーム機を買って貰わなかった幼少期でもないが、皆でする据え置き機はなかった。山奥だったから我が家にあっても仕方ないが、64スマブラを自分の家でしたかった世界線

 

古典的な経済学が基礎としている希少性も同じなのだろうな。人は足りないのが原型で足ることを目的として動く動物だという世界観。足りないとしている物が足されることで幸福という効用を得る。すなわち欲。知識欲だって足らないということを認識しないと足すことを意志できない。好奇心は無目的だが、人格がまともに成長した人はもっと目的を持って成果を得るというタスクをこなしていくべきという刷り込みがありそう。

 

こういう社会(宇宙)では、有っても無くても足りているという思想では人は動かないだろうな。自分の旧来の思想をなぞっていくと、周りがそれを欲しているから合わせて自分もそういう風に振る舞わないといけないというタスクがあったような。今の世界観だと150円で幸せになるお手軽過ぎる奴だし、ご飯も満腹になる為でも栄養補給の為でもなく、美味しいから食べている。一緒に食べたかつ丼無茶苦茶美味しかったのだが、最後らへんは満腹で正直しんどかった。外食屋さんに行くとこうなるから1人では行かない。食べなくても生きていける人が居るみたいだし、僕も煙と光合成とアルコールを主食として生きていける気もする。

 

 

前置きだけで全て語られている気がするが、続けて。

 

冷凍庫で霜が降りていそうなサーティーワンのアイスで朝食。この前どろどろになっていて満月さんに固めておけと言われた気がするが、一昨日来たときに何も仰っておられなかったから食べて良いかとなった。うめぇ。昼前にはローソンで買った無印良品のレトルトトマトキーマ。完成度高い。

 

そうして家を出たのが昼頃。現金戦闘力はほとんどないが、近所の古書店に顔を出しとこうかなという感じが起きた。狙いは新規の専門書とか小説ではなく、はてなブログで読者登録している人のブログに載っていた、中村文則さんの「何もかも憂鬱な夜に」。職場の駅ビルの本屋さんで既に見つけていたから、そんな都合良い世界線なかろうと想いながら。もちろん費用が安く済むという意味ではなく、こっちの方が楽しいということ。

 

勝手知ったる古書店だから目的の棚に一直線。その前に海外文庫のSF棚で存在観だしてきた奴が居た。これはまた今度買おう。

 

在ってしまった。何なら中村文則の本はこれしかない。お値段150円。

都合の良さと世界が一致してきてしまう。ちょっと読んだ感想は少し後で。ここで引いてしまったことで運試し場は諦めるべきだったかもしれない。

 

 

小雨の中、読み終わった夢獏良獏さんの本を想う。

螺旋をテーマとした宇宙論を小説に落とし込んだ話。宇宙の真理は言語で記述できないのはともかくとして、アンモナイトの螺旋にある月齢は面白い。人が何を美とするかにおいて黄金律があるらしい。自然の配置がそうなっているというのは別に摩訶不思議でもなくて、寧ろもともと人間が自然に馴染んでいるだけ。

 

社会にはこういった黄金律のような釣り合いはないから、何かしらの正しさを信仰しないと生きていけないのだろうなと想った。公平な目は内部で居る限り在りえないし、誰しもが天秤の真ん中は自分だから、それぞれ好きに生きられる。この感覚で居ていいことを獲得したのは先人の功績なのだよな。僕はこういう意味で先人を尊敬しているが、具体的な関係で先人だからという意味だけでふんぞり返っている人は好きではない。人は人とは平等だって憲法が唱ってないか。まぁ平等は結局のところ、天秤の支柱である自分をどこに置くか。

 

こういう社会観の極致は法律なのだろうなと想う。

現代刑法はとっくに道徳的な悪からは離脱していて、どんな行為が社会的に良くないのかを分類している。自分のこの行為がどれだけ反社会的かと認識している方が、社会的に具体的に危険かどうかが問題。

 

認識の危険性は民主主義というか、自由主義にするのであれば不可避。

どこまで最低限のルール付けをするのかで言えば、証拠が取れる物理的な世界に妥協される。僕はモニタリング社会でもぽえーんとしているだけだから問題なさそう。個人的には公道に唾を吐く人は躾して欲しい。自分がいいオトナだと思っている人を躾するのは難しいけれども。まぁ唾は自然的には水だし、循環されるし、排泄物と同じでもある。公衆の面前で排泄しているって、ペットみたいだが。

 

まぁ、どんな社会でも区分けはある。

 

「何もかも憂鬱な夜に」。

死刑囚も含まれた看守を仕事としている人が舞台の小説。

 

僕が死の観念を獲得したのも動物だった。チロという名の白猫を飼っていて、ワゴン車のスライドドアに挟まれて退場してしまった。二段ベットの下で泣いた。命はゲームのようにリセットできないって念じながら。もっと前には母方の祖父が亡くなって、死体と添い寝しようとする幼少期。この時には命が何ぞやと分かってない。

 

いま考えると、この成長って退場がタブーというか、厳かなものという社会観に適合しただけ。退場が上がりかもしれない。

 

お葬式しただけで相手の存在が退場するなら、自分が退場した時にもそうなる。

 

無論僕は退場する気が一切失くった。

憂鬱な夜を過ごすこともない。むかーしはずっと憂鬱だった気もする。人格の保証が自分以外に不要になったからか。

 

憂鬱時代の話はまた今度。

 

 

おやすみ。

 

良い夢を。