混同

 

 

満月さんの出勤時間に徒歩10秒くらいの車まで傘を差して行こうとすると、「そこまでしなくて良い、王子様ですか」と言われる。起き抜けにおでこに接吻した時には天然の女たしと言われる。これが素だけど、パートナーにさえあんまり発揮すべきではないのはなんとなく分かる。

 

ちなみに、僕は別に尽くすタイプの人ではない。自分を犠牲にして何かすることに愛はないだろうという立場。余白というか余剰が常にあるようになっただけ。自分を犠牲にして貴方に費やしたと言われたら罪悪感でもやもやしてしまう。それが愛だという世界観の人にはもっとアピールすべきだったが、そんな余裕がない世界に生きたくなかったからここに来ている。

 

満月さんにお返しは特に求めていない。求めないからできるという世界観は我ながら随分ひねくれているのは自覚している。

 

犠牲という世界観だと、おちおち本も読んで居られないと思う。他にすることというかできることがあるだろう、読書で時間を犠牲にするより他に有用なことがあるのではという罪悪感が出てきて、よほど余白時間がないと本が読めなくなる。本を読むより現実のために休んだ方が良いとかなんとか理由は無限に付けられるし。

 

あ、そろそろご所望のもつ鍋を作っていくタイミング。

あと2分で何文字書けるかな。

 

という感じで、8時間仕事した後には寝る為に帰るしかないという記事を見かけて、ここ4年ほど8時間労働の後に毎日夜ご飯兼弁当を作ってお風呂入りながら何十冊か並行読みして、文章もほとんど毎日つけることに疲れって特に感じなかったなぁとなった。もっと長時間の仕事の時は確かに寝る為に帰っていたようなものだが、それでも読書と文章を書いていたか。

 

たしかに素朴な肉体時間が社会時間と調律できない人もいるから何とも言えないが、時間が足りないと言う人って、時間が足りていてもきっとそんなに何か可動できることはない。辛辣ではなくて、時間の感覚って結局は日常生活の延長だから、時間が在るか無いかは日常のものさしが決めている。時間を意識するともともと過ごしてきた幅が前提になるから、今後どれだけあっても足りなくなる。いまなにができるかだけを意識すれば、時間は貯めたり確保したりするようなものではなくなる。じゃあ何なのだというと、当人の存在の一部でしかないもの。少なくとも客観的な物質ではないのに、皆で前に横に下に倣えするのって若干怖いところ。

 

 

 

やれやれ。

 

コメントされるのだったら、もうちょっと感想文を真面目に書いておけば良かった。昨夜さんの文章、現実には悲観的なのに文学には楽しそうだから、現実も文学的に捉えたら良いのではという気がしなくもない。日本文学の理論は知らないが、満月さんが大学院時代に読んでいた文学理論の教科書には、文学は価値観を拡げるものだというフレーズがあった。ただし、意識的に拡げようとするのは政治とか宗教になるから警戒しないといけないとも。

 

北海道に行くことがあれば昨夜さんと飲んでみたい(世界線の越境)。

 

この文学理論で面白いのが、モダニズムとかポストモダニズムはともかく、言語は現実をまるっと表現できる機能を持っていないのではないかという疑問が出てきたところ。たしかに言語って現実か虚構化の二元論で言えば、明らかに虚構に属する。発話という行為は現実だが、発話の中にどれだけ現実が含まれているかというと、そんなにない気がする。

 

僕がずっと嫌だなと感じていたのがこの辺りという話はもう書いたっけ。

別に誰かの劇場の登場人物で居ることには馴れているが、だったら僕も選んで良いよなという感じ。

 

村上さんの感想を真面目に書くと、この世界観って読む人に開かれている。

こういう風に書けるのは修練ではなく、もともとの人間性というか、天才性。全時代的に読まれても問題なさそう。

 

タイトルにある、街と壁がどういう存在なのかって、どれだけテキストを読み込んでも解読できないと思う。

 

よなよなエールうまい)

 

テクストて読めるかというと、全然そうでもない感じ。読み手の世界観によってプリズムになるだけで、もともとの真実はないような。昨夜さんは確か承継みたいなことを読んで居たが、僕の中では、承継されないものをテーマとしているように読める。

 

(満月さんはまだ読んで居ないから、物語としてのネタバレは禁止)

街は主人公とヒロインが世界を設定した空想としての現実として語られる訳だが、この街と壁って、なんというか、まるっと個人の現実感だなって。肉体は時間の流れに不可逆に置いて行くけど、精神は可逆的に生きられる。

 

 

この現実感ってなんぞやと考えると、まんま、「世界はどういう風に存在しているか」という考え方そのものなのだろうなという感じ。この世界観を習得できたのは、文学界のおかげかも。

 

僕も良いオトナなので、諸々の現実的な濁りが現実であるという捉え方も当然分かる。その濁った眼で見られたら、僕の存在はほとんど無価値。でもこれって変な話、僕の存在が誰かの現実感から離れても大丈夫かという現実的認証感があったような。だから極貧で何者にもなっていないかというと微妙なところだが、ほんとにそこを求めいたとしたら僕で在ればとっくになっていたような気もして。ここは今の所負け惜しみみたいな感じだが、負けた気がないのが変人。

 

ともあれ、この世界観を前提に村上さんの新作で読み解くと、ここにある世界のほとんどは習慣という秩序で構成されている。生活という秩序が壊れるところか物語が展開する。紐解けば全ての村上作品はそうかもしれない。その移動が面白い人は、もっと普通の小説のダイナミズムを読むだろうな。

 

村上作品を読めない読書家は、たぶん読書に普通ではないことを求めていて、自分の普通を感じることをタブーとしている。普通に世界線が移動することは従来の世界から動きたくないという無意識の抵抗だし。

 

宗教的な意味でもスピリチュアル的な意味でもなく、なんなら科学も社会学的でもなく、今の時代って、きちんと自分で居られる世界なのかもしれない。

 

僕の中での現実って物理的な現象ではない。特に人間関係をしていると、相手の現実感が問題になってくる。

 

現実って、ほんとはなんじゃろう。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。