疎通

 

 

 

初仕事。職場の自販機で水を買うと当たってもう1本。幸先が良いのか話題を提供してくれたのか。いい年になりそうデス(棒)。

 

何が起こったらうまいこといった年になるのかと一頻り考え、思い付いたことが全部起こらなくても楽しめそうではあると想う。でも、概ねうまくいきそう。知らんけど。

 

 

そろそろ新しい本を仕入れようかなと、駅ビルのリブロで立ち読み。生命科学からビジネスを考えるという本がやや面白そうだったが、だったら生命科学そのものの書が良いなとなる。濃い味を求めている。

 

なんとく本を読むことを味覚になぞらえているが、感じとしては手触りとか見た目とかもっと全体的に捉えている気もする。物語の登場人物の声は聴覚の蓄積からイメージされるものだし。シェイクスピアの演劇を声優付けてやってみようと試んだこともあるが、時間がかかり過ぎてやめた。今は「オセロー」を読んでいる。嫉妬は外堀からでも生まれるんだなぁというか、嫉妬は関係の中にはなくて当人の中にしかないということを語りたいのかもしれない。

 

さておかない。

 

物語と会話。

 

職場の雑談で気付いたのだが年末年始の5日間、誰とも現実で会話をしてなかった。ストレスフリー。私だったら発狂するとか、別の人は親が話しかけてくるから会話が無いということはないとか。

 

コミュニケーション能力が無くなるのではないかと自他共に雑談したが、どうなのだろうな。日常的に人会ったり関係していたり時の方が疎通能力は鈍かったような。あまりに求めていなさ過ぎて会話をしてないということに気付かないくらいだし、現実的に人と話したいという欲求はないらしい。

 

会話をして分かることはあっても、分かられるほど発話を駆使できない。というか会話で何かが発展したり発見されたりした成功体験がないのかも。記録されないし、分かり合うツールとしてはかなり拙い。

 

昨日書いていたグルーミングの意味として、自分の居場所ないし位置を測るためのツールとしては有用なのかも。会話をしてなければ発狂するというのはこの文脈では。誰かと関係していることが自分を存立させるみたいな。僕にはこういう意味でも人と話したいことはない。話すことはあるとしても、それが誰かに話されたことによって承認というチェックが付く訳でもないし。

 

僕が会いたい、会ってみたいと思う人って、会うこと自体が問題であって、楽しい会話が起こるとか何がなされるかはどうでも良いのだろうなと思った。その人と現実に会うことだけに意味がある。時間と労力は問題にならないし、何も起こらなくても良い。会いうる可能性の時点で縁は起っているとも言える。

 

 

 

そもそも論。

 

コミュニケーションってなんだろう。

 

伝達という話し手を問題とすることが多いように思うが、個人的には伝達しようとされていることを適切に受け取る、分かろうとすることだとしている。受動的と捉えられるかもしれないが、相手に何が分かるか分からないと、伝えられなくないかという話。

 

外国語圏の人にいくら日本語で綺麗に伝えたいことを調えても無駄なことと同じで、日本語圏でもどういう言葉であれば伝わるのかを、相手の発信から学習する必要があるような。

 

この流れでいうと、もっとそもそもにある「伝えたいこと」が自己と言葉で問答した結果だとすると、当人が本当に伝えたいこととはズレているのかもしれないなとさえ思われる。自己との対話って、だいたいぐずぐずしてないか。もしくは英雄譚みたいなの。

 

空気読み過ぎるのもよろしくない(経験則)が、本当にしたいこと、伝えたいことって簡単に言葉にならないように思う。

 

だから物語がある。

 

会話がなくても問題ないのは何故だろうと想う。孤独を至上としている訳でもないし(だったら山に籠って滝に打たれれば良い)、外の世界と通行を遮断しているとも思わないなぁって。

 

徒然草の亡き人と書物を介して心を通わせるということで暖を取っているのかもという発想。

 

物語を無味乾燥に定義すれば、虚構の文字情報で葛藤が綴られたものとかになる。物語に葛藤が必要なのは初めて知った。まぁ良いとして。

 

「時間の終わりまで」の続きで、人が物語を必要としたことを、読み手ではなく書き手視点で書いている下りがあった。

 

経験を物語という形式で記す必要性。

 

物語を読むときに背景が気になるのはこういうことだったのかと腑に落ちる。虚構として言葉を綴ったとしても、前提に書き手の経験則があって、芯には生の人間の語りがある。生で語るとグロテスクになるから嘘で装飾するという奥ゆかしさ、なのかなんなのか。

 

僕も物語形式での記述をやってみたくなってくるが、ともあれ。

 

物語にある経験を読み取ろうとする方が、雑談で現実的に人と関わることより遥かに濃厚なのではないかという話。単に虚構として読むのであれば、そんな奴現実にはおらんやろとなりそう(人間失格とか檸檬とか猫町とか)だが、そういう風に生きている人が生身で居るとして読めば、現実の人に対するパターンとして経験則に学習される。

 

 

ここからさらに進むと、世の中に溢れる個人が書いたブログとか記事もそれを書いた生身の人間が居るわけで、虚構にするにはもったいなくないか。

 

もっとそもそも。

 

綴るにせよ話すにせよ、言葉にした時点で虚構を帯びる。

日記が記録になりえないのは、どこを言語化するか、誇張するかに編集が加わるから。

 

この話、じゃあ何を真実とすれば良いのだとなりそうだが、個人的には真実がない世界の方が楽で自由だからもっとやりたいようにやれば良いとしかならない。

 

 

現実が真実というのも一定程度真理だが、人の能力では現実全部を把握できることはなく、あくまで現実感の問題でしかない。

 

 

僕は自分が自分であるという蓄積された現実的自分も役に立ってないなと思っている。

この振る舞いって、単に今まで何事もなかったという負の成功体験でしかなく、人と関係してないと自分が保てないなんてこともなかった。

 

まぁ別に自分の直感を信じている訳でもないが、道徳とか一般常識よりは精密かなと思っているだけ。

 

人は自分の相対位置を把握しないと自分が投げ飛ばされると思っているみたい。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

うまくいく年でありますように。