余りない

 

 

世界がこれほど面白いものでなければ退屈を理由にして退場していたかもしれない。

本と未来が行列待ち。

 

 

昨日の日記、何か手応えみたいなものがあった。読み味はそんなに変わらないはずだが、とてもフラットな精神世界がスケッチできている。特にいじけてもいないし。相手にとっては余剰な感情かもしれなくても僕にとっては満場一致の感情。あ、これは日記ではなく私信の方で送ったやつだ。

 

ただ、文体として何かやはり変だな。日常の会話も、話題が絞られていれば限定して話せるが、僕が中学時代から無口になりがちだったのは思春期特有のものではなく、開いた世界で会話するところの「自分語り」が全然できなくて、突拍子もないことばかり発する自分をやめとけと思ったのかも。日常会話って基本、自分が何を知覚したか、その出来事に自分は何を感情として感じたみたいな自分と連動した話ばかり。無関心に眺めたこととか、ましてや純粋な思考は語ることができる場がない。昨日の耳の話とか。いや、先生と呼んでいる上司なら、哲学分野に絞った思考なら会話できるかも。

 

例えば、noteを有料にする動機に恥ずかしさがあるのか、それもありだなという発見。これは昨日、歩道橋を歩いている時に出てきたもの。恥の観念も面白い。

 

 

僕はもっと人と話したいのかと自己問答。インターネット世界がなければここまでは至れなかった。もともとは人に倣って、自分から溢れたものを言語化するようにしていたが、続けていくうちに、自分からはみ出す言葉は存在し得ず、もともとあるものを言語で描写しているだけ。

 

そろそろnoteの記事数が増えてきたから、他の人のようにカテゴリー分けしようかと思ったが、分類できるように書いておらず諦める。情報とか共感を検索している読み手には優しくないが、こういうスタイルなので合わない人はやめておけば良い。どれを読んでもあんまり変わらないです、たぶん。

 

 

 

ノルウェイの森を読んでいるせいに違いない、中の世界の点検が起こる。官能的描写が多くて気持ち悪いとか、言い回しが合わないとかは、文字通りに読もうとしている、もしくは読めないから。普遍的無意識に微睡みながらそこを言語化しているから、登場人物も微妙に現実的なキャラではない。別作品で、記号士だっけみたいな架空の仕事でシャッフリングという手法があった。あるトリガーを介して無意識の中で活動し、帰ってきたときには自己が何をしていたかが残ってない。

 

おそらく村上さんはある意味トランスみたいな領域で物語を書いているから、厳密に言えば、村上作品は一般的な小説としても物語ではない。ストーリーはあるし筋も追えるが、完結したところで何かを得る物ではないから、合わない人にはとことん合わないのだろうな。

 

本の師匠が言っていた、第三の語り部って、物語を介して出てくる鏡像の自分なのかという説が出てくる。そこに耳を澄ますと、むーん、むーんと唸っている。

 

 

自己問答、発掘の前に本の歴史。

 

 

自分が最初に読んだ物語ってなんだろうな。読まされた物語であれば国語のお勉強とか読み聞かせられた(記憶はない)ものだが、完全に任意で自発的に読んだもの。読書感想文で読んだイノシシの本もあるが、これは読書感想文という課題によって読まされたに含ませて良い。読み聞かせだと、小5の時に担任だった新選組みたいな名前の教頭先生が音読していた「少年H」がある。

 

完全に自分の意志で手に取った物語は、「精霊の守り人」。たぶん小学校の図書室(カーペット張りで音楽室と繋がっている)で読んだのだが、小学校時の僕は陽キャで休み時間の度にグラウンドで走り回っていたから、中学校時なのかもしれない。でも、どちらにせよ本を読んでいる時間軸がないんだよな。いつも誰かと居たし、1人で何かする時間が取れたとは思わない。無意識で捻出していたのかしら。

 

大学入って人間関係というか時間に余裕ができるまで本を読んでいた記録がないのは、本を読むことに対して「恥」があったのかも。守り人シリーズで好きなのは闇、夢も捨てがたい。夢から先は大学以降に読んだからきちんと残っている。それにしても精霊はいつ読んだのだろうな。上野さんの本はだいたい全部好き。獣の奏者エリンはアニメが先だが、これも全部読んだ。原作の終盤は滅茶苦茶悲惨だが、人為的に自然を操作しようとした咎とすると、自然ではある。

 

 

そうして、自己発掘に戻ってきて。

 

ノルウェイの森にもあんまり連動はない。僕は性欲処理に具体的な女性を使えないし、やるせないなら辞めたら良いとしか。抽象世界の物語であるとすれば、直子もミドリも理想的な女の子としても偶像みたいなことになる。

 

ただ想ったのは、人と人との縁として、通り過ぎられるものだとしたのはここ由来なのだろうなって。ワタナベがキズキから死によって通り過ぎられたとの同値で、ちょうど父親にも通り過ぎられてしまったタイミングだったし、その頃の僕は相手から告白されたのに一ヵ月でフラれるという関係が3連続であったところ。この頃は非接触だが、接触が起こった後もあんまり変わらない。

 

人は僕のことを通り過ぎて行くが、僕は勝手にその人達を残しておける。

これは別に記憶力という能力でもなくて、空っぽなだけ。

 

空であるとできるのは、色々と読んできた節もある。世の中には知らなくても良いことがあるみたいな風潮があるが、これって中途半端なところで留めているからであって、突き詰めれば誰も何も知ってないということになるし、留めることが不自然なのかも。

 

社会という世界で過ごしていると、考えない方が美徳とされている節がある。

あくまで考えることはその範疇の中ですることみたいな。これに気付けたのは法律学をずっと読んで来たからで、ほとんどの人にとってルールは無思考に従うべきものになっている。従うことと考えることは別なのに。

 

僕が自分になれたのは、こういうタブーも含め全方向で考えて良いとなったから。

 

例えば、人格の統合。普通の人の発達段階として統合するのが善きとされているが、統合されているのではなく、切り捨てているだけ。僕は全人格を赦すことにして、画一的な人格は決めてない。そうしたら、外界にうずうずして開く自分が居ることに気付いた。

 

たしかに、この今の社会が生きている場所だから、そこは前提としないといけないが、前提とすることとものさしにすることは全然違う。測ることと動くこと。

 

愛の観念に悩んでいる人が居るから、少し愛について。

 

僕は一般的語用の愛は人間的ではなく動物的としている。犠牲とか奉仕はボランティアみたいになるが、この文脈でいう無視の精神は、個人的な感覚を排除した人類的なものであって、意志とは別の物。

 

一緒に過ごさないと愛ではないいう観念も社会的な当たり前のインストールであって、人間にある愛の本質はここではない。僕にとっての愛は、自分の存在と連動しなくても相手の存在を許容できること。通り過ぎられた後でも思えるかどうか。

 

通り過ぎられた存在はある意味死者なのだだが、どれだけ一緒に居たとしても情報更新負いきれなくないか。僕は自分の存在も追い切れていない。

 

要は、自分にとってどうかという存在認識ではない。宵顔さんもいつでも通り過ぎて良いのだが、なかなかそうしてくれないらしい。

 

なんでだろう。

 

いや、宵顔さんにこの話が通じているとは思えない。

経年劣化で発することができないという普通のつぶやきをしているし。

 

僕もまぁまぁ経年だが、経年して分かったことは、常識はただ自分が止まった、周りが止まったことを当たりまで生きているだけだからだろうなという次第。肉体的な全盛期無関係に今の方がきちんと自分だ。

 

自分がそうだから、社会がそうだからといって、他人にその感覚は押し付けない人が良い。

 

そういえば、僕がどういう存在でありたいかというところで、僕の文章を読んで、自分と対話して思考できるという発想があったが、これって途方もなくハードル高そう。人の思考のトリガーになる文章って、それこそ普遍的無意識に至らないと。

 

そんな感じでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。