原点(典)
「私の自由意志にとって隣人の自由意志は無関係である、隣人の息と私の肉が無関係であるように。」
自省録、喫煙ルームで電波が届かない時にkindleでちまちま読んでいて、やっと33パーセントくらい。参考になるというか、縁がある感じ。「ひとりひとりの指導原理の中に入っていけ。またあらゆる人に君の指導原理に入らせてやれ。」 僕に足りていないのはここなのだろうな。
特にさておかない。
昨日の日記、別に印象を壊すようなところまでいってないような気がする。もともと漏れていたところを言語で整理しただけ、みたいな。言語化はあらためて自分を観測する契機になった。人との縁の中で自分を発見してきたし、人を倣ってきた。自分が独りでできあがっている訳ではない。ここ3年程、物的な人との関わりを断っていたからあまり意識されなかったが、僕は人の中に入るのが好きだったのだった。
もともとがこういう奴。と気付くと、一日中皮膚感覚が裏返ったようなリンクの感覚が拡がる。鳥肌(感動)が頻発。まぁ、人以外でシンクロニシティないしリンクを張って自分を静かに眺めたこの3年は必要な期間に違いない。ただ、こういった繋がりは対物だけなはずもなく。対物だけも随分途方もないが、対人にも在るのが自然。
会社のお手洗いの水を流すところにある「緑ランプが点ついたら」という記述が「縁ランプ」に見えた。人との縁は難しい。僕の人格上、あんまり自分を見せずに相手の指導原理の中で生きてしまうから、最終的に不協和音が起こる。あと、対人の関係だと、社会的なものさしも出てくるし。
でも、ここが素朴な自分であって、もともと縁は必然ではなく選択肢があるものだとしていた模様。ある視角から見ればこれはたくさん持っていると見られがちだが、いや、持ってないから選べるということ。空である。
シンクロニシティもリンクも縁も呼び方の問題であって、要は提供されるタイミングとか機会。個人的に漢字が好きなので縁と呼ぶ。これが過去になると縁(ゆかり)になるも良きな(いま調べた)。
やれやれ。
これも1つの縁。文学フリマで読み終わった本の次に「ノルウェイの森」を読み返すことにした。「海底二万里」をだるま落としして、お風呂読書時間での最後に持ってくる。
最初に読んだのがワタナベの年齢くらいで、今や冒頭の主人公と同じくらい。僕の原点のような本なのかもしれないと湯船の中で鳥肌を立てつつ想う。折に触れて読み返している。通算6回目くらい。読み返すときには現実が動いてきたような気もする。誰にでもそういう本はあるはず。
どういうストーリーだったかは残っている。永沢さんの「紳士とはやりたいことではなく、やるべきことをする人だ」みたいな話とか、キズキのこじんまりした場を回す才能とか。そういえば、映画化のワタナベ役の松山ケンイチさんはぴったりと思ったが、直子と緑役は逆の方がしっくりくるようなと思ったな。でも、冒頭辺りを読み返してみると、監督が感得した印象の方がしっくりくるような感じもある。直子の方がある意味図太くて、緑の方が芯の細さがあるのかも。読み返しでは緑はまだ登場してないが。
読むたびに話が変わってくる、一義的でないのが良い物語。直子とワタナベの関係ってなんというか、外(=キズキ)の不在を媒介にした、どこにも向かわない閉じた関わりなのだろうな、という印象。
冒頭で直子はワタナベに2つの願い事をする。「なるべく会いにきて」、「私のことを忘れないで」。たしかに「直子は僕のことを愛してなかったのだ」となる。相手の中に存在を残す、相手が自分に対して何かしてくれることでもって相手の愛の証明にするのは、世界の中に相手が居ないこと。
ただ、ワタナベだってきっと直子のことを愛していない。具体的には色々かいがいしくしたし、自分がしたことによって愛の証明としているのも自分の世界の中であくまで閉じている。村上さんの小説ってだいたい閉じた世界をテーマとしているのか。僕はこういうのを愛とはできなくなっていて、なんだか随分読み味が変わってきたなぁという次第。
本の師匠曰く、この物語にはもう1人の語り部が居るとのこと。今なら読み取れるかもしれない。
ワタナベの人格の殻の話がとてもしっくりきて、トレースしてきたところはあるが、僕の精神世界の原初は井戸ではなく、真っ白だからそろそろ卒業するときという意味での縁なのかも。
我がもの語りながら面白いな。
世界は実は閉じていない。僕の指導原理は何か固着したものではなく、「運動」にある。「分かる」を考えることを立ち読みしたときに、人は分かったことを踏まえてしか運動できないという話があった。発話、文章化、思考、お絵描き、全部然り。文章化についてはコピペで運動した気になれるというのはあるからなんともだが。
発話も、おしゃべりしている気になっている人の語彙量を観測していると、現象を動的に捉えて居る訳ではなく、静的な言葉に押し込めて無理矢理同じことに押し込めているように見受けられる。現象を言葉で描写するのではなく、言葉で世界を規定する。
まぁこの文脈ではポジティブな言葉で現象を先に規定するという方法論もありうる。僕が楽しい楽しい言っているのも、視角によってはそういう風に見られるのかも。だからあんまり開示できないのだが。
色々と世界を収取して自己観測した上で、今後の方向性としては、他人に対しても自分を開くというところ。合わせないと好いてないと思えない人とは関係できないし、僕は僕に対して何かをした(できる)ことによって想いを定義できる人は無理くさい。そんなの社会的な関わりの範疇だし、これって人が交換できるところ。でないと社会が成り立たない。
やっと自分。
遊びに付き合ってくれる人が楽しい。
ここ3年くらいの独り身生活が問題無さすぎる。誰かと繋がって定期的に交信して相手の中に居る自分の存在を確保するのが駄目だったし、返ってこないと送らないみたいなこともないし。いやこれは紙一重でストーカーだが、おそらく大丈夫な人にしかしてない(こわごわ)。
そういえば、「時折冷たい」という評価。まさにその通りで弁明もないが、寄り添わなくても良い人として存在を認めているとも言えませんかという返歌。まぁ直にその場に居れば、撫でまわしたり、発話を聞いたりはできるしやるが、インターネット世界の次元ではそれはできなくて、言葉だけでそれを装うのは止めていましてという感じ。
閉じるのは充分やったから、あとは開くだけ。
はい、おやすみなさい。
良い夢を。