2ミリの軽さ

 

 

つまりはこの軽さなのだな。

 

 

刑法のお勉強のような夢。大学生くらいの僕と隣の部屋からベランダに侵入してきた少し年下の少女との交流。なにやら通り道として良いらしい。2人でベランダに腰をかけ満天の星が浮かぶ夜空を眺める。綺麗だった。どうやらこの少女には暴力的なカレシが居るらしく、当人もやってくる。逆上して出刃包丁を振りかざすカレに僕はマグカップを投げつけて応戦し、当たり所が悪く(良く)、カレは意識を失い病院に運ばれる。殺めることにはならなかった。

 

これを刑法の論文問題調に書くと、僕のマグカップを投げつけた行為は「傷害罪」の構成要件に該当する。マグカップを投げつける行為は人に対する有形力の行使であり「暴行」にあたり、意識を喪失させるという人の生理機能に障害を及ぼす結果を生じさせているため、「傷害」となる。しかし、僕は少女と自分を守るためにマグカップを投げつけており、これが「正当防衛」にあたるかが問題になる、というような流れ。

 

その後に病院のシーンだったり、意識を回復したカレが意趣返しにやってきて、応戦した友人がカレを殺めてしまうシーンだったりがあるが省略。

 

自分の経験則とは全く関係ないことを夢に出すって脳はどうなっているのだ。

帰宅してから正当防衛の項目を復習した。この事情であれば成立すると考えられる。

 

 

冒頭の文は知る人ぞ知る梶井基次郎さん由来なのだが、檸檬の重さすら持っていないなぁと想う次第。梶井さんの檸檬はとても好きで、というか、この時代に共通する閉塞感みたいな感じが好きなのかもしれない。「Kの昇天」もシーンが幻想的。高校の現代文で檸檬を読んだ時はさっぱりだったが、当時の国語の担当かつ担任の先生(名前は3秒くらいで出てきた)がやたらと褒めていて、ずっと残っていたらしい。その後空間を隔てた図書館デートで読まれることになり、思い入れも残る。

 

そういえば、この担任、面談の時、国語ができるから(当時は好きまでは無かった)文学部でええかと話したら、文学部はつぶしが利かないから、経済部とか法学部の方が良いと仰っておった。たしかに、文学部に行ってしまうと小説の読み方が学問的になってしまったかもしれない。今となって想うのはそもそも文系の学部で潰しが利くところなんてなく、この先生が文学部に行った経験則が語られていただけなのかも。小説が好きだから文学部に入ったが研究者になるまででもなく、気付けば教職しかなかったみたいな。まぁ僕は先生と仲良くなれない人だから、内心は知る由もない。

 

さらに今となっては何処に行ってもここには辿りついていたという感じだから過去の分岐はどうでも良い。

 

本の話はいったんさておいて、現実の話。

 

ちょっとだけ越権的越境を運動した。最古参の先輩の知識の更新というか僕もたまたま同じような案件で調べて知っていただけで、僕の仕事の領分では知識の共有はあまりしていけないのだが、客観的なものだし、この人はそこに拒否感覚はないだろうなと思い、帰り際に話してみた。

 

勉強しとくわと言われる。いや、たまたま知る機会があっただけで、人に対して勉強しろとか全く思いませんとまでは言えなかったが、ニュアンスは伝わったとは思う。個人的には更新したものはどんどんシャアしていけば良いし、そこに序列は関係ないと思っているだけで、指摘してくれる人の属性も関係ない。ただ、どんな集団でも連帯感はあっても全ての情報は共有されるべきではないという不文律がある。これは、処理しきれないというのもあるし、処理する気がないというのもあり。

 

思考コストはなるべくカットしたいのが普通の人なのは理解できる。だから正しい知識とか、誰かが言った正解に依拠する。この姿勢も一種の合理性であって、あまねく無知から自分の周りだけ既知だと信仰するのも人生の配分の選択としてあり。僕の中ではもったいなくてなしだが。

 

知識の概念について少し思索。先々週くらいに同期がお洒落な先輩と雑談していて、ちょっと状況が変わったら分からないから上司にエスカレーションするというフレーズがあった。

 

素朴な本質を突いていると想う。知識の一般的概念って、自転車の乗り方を知っていること。実際に乗れば上り坂ではよりこがないといけない、下り坂ではこがなくても良いがスピード注意、交通量が多い場所ではより前後左右に注意を払わなければという運動があるのは誰でもわかるはず。

 

なのに、頭の中では運動が起こらなくて、この状況にはこういう正解があるという蛇口をひねったら勝手に答えがあるみたいなことになっている。これも言葉の力なのかな。この文脈だと知識と経験則は同じことになる。問答集みたいなストックで自分が積まれていると思うと、いっぱい持っていることに馴れるが未來の未知には対応できない。

 

知識が運動に使えるようになると外付けのメモリではなく自分の一部だからそこに重さは無い。自分の腕に重さを感じないのと同じこと。寝ているとき時々腕の重さが鬱陶しくならない? ならないか。

 

越権したことに対するちょっとした懸念は、この会話を聞いた周りがどういう反応をするかというところ。アイツでしゃばりやがってとか、はたぶんこの職場だったら大丈夫と思う。まぁあったとしても気にしないが。

 

という感じで、僕は精神世界と現実世界を連動させているから、詩人でも哲学者でもないんだよな。

 

こういう現実的運動を観測すると、そろそろ現実的に人と会っても大丈夫な気がする。

相手の世界観に無駄に巻き込まれず、きちんと相手と接することができるのではと。守るべきものがなくても仮設はできるし、冷たい距離感を保てるはず。

 

誰が遊んでくれるのか。それとも、音信不通にしている友人に送ってみてもいい。怒られるかもしれないが、あんまり気にしない。存在を残しているから再交流はきっと可能。

 

そろそろ誰かと内部で話しても良いかも。

 

やれやれ。

 

ノルウェイの森はほんと閉じた世界だ。直子とワタナベは交流しつつお互いの存在に馴れていくのだが、運動がない。物理的な移動は徒歩で一緒にたくさんしているのに、何もない。お互いの内部に入らないから。

 

村上さんは個人的に普遍的無意識領域に至っている人と思っていて、直子が言葉探しをする精神世界の中での柱の追いかけっこが、古事記イザナミイザナギの交合のシーンと重なる。1つでは不完全みたいな感覚って人類史では普遍な感じ。だから1つでも完結できる神様の概念を創りだした。

 

そういえば、僕は村上作品の中のやり取りみたいなことができる人が居たら良いなと思っていた気がする。言葉が存在とあんまり連動してないやり取り。ノルウェイの森で言えば、ワタナベが緑に言った、僕の時間は余っているからその時間の中で君を眠らせたいみたいなやつ。

 

 

個人的な書き言葉としても僕の存在とはあんまり連動していなくて、リズムとか語感で書いている節がある。思い付き。臨時の隣人とか、刹那の切なさとか。ラッパーでもないが。

 

詩人がやってくるのはこういう語調だからなのか、はてさて。

 

 

この世界観で生きている人は経験則上誰も居ない。自分も他人も決めずにただ運命が閉じるまで運動するだけ。もちろん社会的ものさしを外すと檻の中だからそんなことはない(なりそうになったことはあったが、これは友人の世界観に連動してしまったから)。

 

恵まれているのだとは想う。底辺収入層だが、全然軽い。

何者でなくても良いということは何者になったとしても自分は動かないことだから、ここから億万長者になる世界線もあるかもしれない。望みは自在。

 

最後に本屋さん。

こじんまりした本屋さんの本ですら、一生かけても読み切れない情報量。で、世界の理も全く分かり切ることはできない人生の中でどうして世界を知った気になれるのだろう。

 

人生はどこまで動けるのかという話でしかないような。

 

はい、おしまい。