中身の記憶

 

 

夢に高校1年のにぎやかな女の子二人組が出てきた。固有名詞を書いても今更どうということもないが、なんで登場したのかも分からないくらい何を会話したかも覚えていない。この時代あんまり人特に女性とほとんど話していないはず。まぁ、1年毎日同じ教室に居たのだから、覚えていて当たり前ではある。ちゃんと世界を見ていたということらしい。もともと開いていたのか。記憶力云々というより、これまでを覚えているということは、これからも留めて居られるということ。外部媒体に自分を置かないように身軽になりたい挙動。

 

ふと思ったのだが、僕だけが一方的に覚えているということはありうるのだろうかという疑問。世界ってそんなに完結できるのかな。見ただけの人なら分かるが、少しでも接したことがある人はどうだろう。だいぶ接した人でも忘れている人は居る訳で、なにか相補性があるような気がしないでもない。覚えていると覚えられているはそれほど重なり合っているような気はしないが、何か謎を感じる。

 

あと別の夢だと、やたらと駆動性があった。実写の車でマリオカートのショートカットみたいなことをやったり、遥か上空で透明な床の上に立っていたり。痛覚とかはないのだが、浮遊感はある。

 

さておき。

 

僕が無料とか、当たりとか、誰かに一方的に何かをやってもらうことに対して違和感があった理由を行動経済学が解明してくれていた。無料の心裡と機会費用の話。

 

経済学的な専門用語だから機会費用についてちょっと解説。何か経済的行動を選んだ時の、選ばれなかった選択肢の中でもっとも価値が高いものと古典的なミクロ経済学では解説されていた。旅行に行くときの同じ効用も持ちうる代替的価値の中で一番価値があるもの。映画とか散歩とかかな。ただ、個人的には、もっと広く選択されなかった全部の総体的価値なような気がしている。

 

で、無料アプリから。無料アプリをすることに対価が要らないということは全くなく、まず最中他のことはできないし、ログインボーナスとか、アプリそのものに対する時間が対価に払われる。ただでも貰えるものを人が選びがちなのは、お金を払う苦痛がないからだとのことだが、通常であれば意志を駆使して選択しているところにただが介入すると、意志が希釈化されて、最終的に選ばされるということになること。これが良くない。無自覚に自分の時間が消費されていく。

 

自販機の当たりが嫌なのも、自分が買ったものは自分がちゃんと買おうとして買った物であり、要るから買っているところに、ただを押し付けられること。自分に要るものくらい自分で決められるわという話。タイミングだって自分で選ぶことなのに。

 

一方的に何かを与えられることも、別に僕は欲していないから、相手が与えたいだけだろうよと思う。感謝する筋合いではないが、感謝が押し付けられる。いや、サプライズパーティーとか明らかに対価が不要なのは問題ないが。別にもらえるものはもらっとけ精神でも良いとは思うが、そのもらったものは、自分が選べた何かを奪っていることには自覚しないといけないような。良かれと思って食べ物をもらったとしてもそれを食べるかどうかは自分の意志で決めたら良い。

 

僕があえて意志を問題にしないのはほとんど全般的に自分で動いているからあえて意志みたいなエネルギーを取り上げる必要がなくなっているからだが、ただとか受動性は意志を明確に蝕むんだよな。だからそういう営業戦略に乗りたくない。ちゃんと自分がしたいことに時間を充てる。

 

これで考えると、何かの行動の躊躇期間としてではなく、意志して何もしないという行為は最上級の価値がある。なんでもできる時間をあえて何もしないことに充てる贅沢。空想的デートとかは次点。めっちゃ楽しかった。

 

行動経済学見ていると、人って結局自分の素朴な意志なんてなくて良いのだろうなと思わなくもない。この文脈だと意志というよりは思考なのか。考えるって、素朴な自己観をぶっ壊す危険性があるのだが、あくまで自分の範囲内で考えるのであれば、それは思考の枠内ではあるが、どこにも行けないし、ほんとは何処にも行きたくないのだと思う。

 

だから、考える範疇は外のことになる。まぁ、自覚があるのであればなんでも良いと思うが、人ってだいたい自分自身についても無自覚に見える。自覚的な自分は外に出さなくてほんとに大事な人にしか見せないであればまぁ分かるが、どうなんだろうな。

 

この流れで、僕は発話で良く喋る人になんだか闇を感じてしまう。ほんとの自分を見せないようにバリケードを張っているのではないかと。確かに一般的な感覚として、いっぱい喋る人は活発的な外交的な人格と捉えられるから、そう見えるための装飾というか虚飾みたいな学習なのだろうなとは思う。かといって、あんまり喋らない人に闇がないかというのも微妙なところで、何か言葉が溜まっているのかもしれないし、何も考えていないだけかもしれないし。

 

僕が発話について全然重きを置いていないからかもだが、現実世界においては発話より体を動かす挙動を見るべきだと思う。言語世界では継続。

 

僕の本日の現実世界での発話で取り上げるなら、スーパーの店員さんが何故か6缶パックのビールのバーコードを通すのを忘れていて(たぶん重くて読ませられなかったのだと思う)、やたらと会計の値段が安かったから、「これ読み取れてないですよね」と言ったくらい。高潔な人物とかではなく、気付いたのに放っておくと自分の人格にダメージがあるというだけ。自分がお金を払うつもりで買っているのに、たまたまのうっかり店員さんの存在で得するという選択肢は選べない。これをしてしまった後の棚の在庫計算の苦労も想像できるし。

 

という感じで、僕は内側に思考しているとしても、世界に対して閉じていないから、ちゃんと今の世界を生きている。

 

ともあれ、こういう文脈で見るとやはり謎の人の人格はおかしい。

普通に生きていれば良いのになと思うし、僕としてもそれで良いし、自分のことを賞賛する人は単なる嬉しいで済むはずなのになんか変。一般的に言えば、キャバクラのスキルみたいに、(省略)

 

まぁ、僕を一切見に来なくなるのが関係性では最上の結果なのではと思う次第。

好きと幸せを祈るのは別の次元の話。返してくれた言葉は証拠としては残っていないが、僕の中には残っているので問題はない。ぶっきらぼうな感じがとても良きでした。

 

他人を自分の為に遣わない人を探すべき。

別にあってもなくても良いが。

 

ヴェニスの商人、鉛の箱を選んだ人に対してヒロインが自分の全てを捧げますみたいなことを言っていて、物語ちっくだとしても、こういうことだよなとは思う。

 

他人に対する影響値でびくびくしていた自分は知ったことではなく、自分も他人も忘れないで良いし、まだ先しかない。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

幸せでありますように。