ちゃんと人を捉える

 

 

人は水物。安定するためには揺れに合わせなければならない。

 

 

夢ではユニクロが出てきた。現実では買わない半ズボンを買ってもらう。ハーフパンツも買わないな、骨ばったふくらはぎがバレる。唐突にさっき除毛をしてみたのだが、これは高校時代より細い。高校時代はテニスでふくらはぎの筋肉使っていたから、筋肉量の問題か。今は歩くことしかしてないし。どこに向かっているのかよく分からないが、自分の領域の中で色々試してみているだけ。

 

通勤。昨日はとぽっぽ達が落ちているだろう米粒を貪っていた田んぼ、本日は誰も居なかった。面積に比べて全然広がってなかったからそこだけにしか落ちていなくて、食べつくしたのかもしれない。退勤。お月様とはタイミングが合わずにちらっと厚い雲の後に居た。なんとなく存在感は見えたが。昼ご飯の時は、世界と自分は連動してないにしろ、いくら孤独になったとて世界との繋がりは断ち切れないよなとか言語化していた。

 

 

仕事のフィードバックの評価が悪く、しかもよくもまぁピンポイントでそれを選んだなというくらい自分の中で上手くできなかった案件で一瞬凹んだ。どうして沈むのだという自己分析をする。表層では点数が付けられるのが嫌なのだという解釈が出てきて、それも然りと思ったが、奥には、自分はある程度できているという自負があったのだろうなとなった。他の案件がピックアップされていたらそんなことはないという行間的感情。

 

我ながら滅茶苦茶誇張した自己評定だと思う。発話を意識的に扱うってアスリートレベルの動き。反射で発することをコントロールしなくてはならないし、感情めいた抑揚もつけないといけない。文章の方が遥かに簡単。相手に応じなくて良いし、試行がそのまま反映される。意識的に捉える自分の動きで言えば発話は最終段階だからまだまだ。凹んだことを反省した方が良い。

 

発話こそもっとも無意識が稼働している領域だろうなという思索。

周りがそういう言葉遣いだったというところから学習して、この発話で大丈夫だったという実践の積み重ねだし、意識が上の空でも会話はできる。

 

銀色夏生氏の日記本を立ち読みしたのだが、よく会っている人でもしんどいという人のことを冒頭で書いていて、発話が空疎だという話があり、うーんそうだよなとなる。自分の頭で本当に考えているのかとも書いていた。うん、わかりみ。

 

ところで、人類まで抽象化した壮大な発想なのだが、現代人の精神と古代人の精神ではどちらが豊かなのだろうという想起。物には須らく魂が宿っているという観念の方が豊かなのではと想う。現代人は人と物を分けて、物は支配して管理できるものとした訳で、この切り分けは経済の発展に寄与したのは確か。でも、この世界観は、世界は何か支配されているということと連動しているような。

 

一方通行できるというように世界はできていないし。古代ローマには奴隷制度があって、奴隷ではない人の奴隷制の空気感から離れられないと同じ。時空という三次元世界の当たり前は人間に物質的側面がある限り逃れられないが、三次元で捉えられない存在に重きを置けるかどうかは人の存在論としての豊さと等しいのではという感じ。

 

物を支配できているという観念は事実上のフィクションでしかないよな。本当は支配しているのではなくて、恩恵に与っているだけ。その恩恵を人同士の中でだけ支配とか管理とかと呼んでいるだけ。スケールとしてはとても小さい世界。

 

まぁ現物の話はともかく。

 

言葉は物なのかという問題。

自分で考えられるかどうかのほんとは、呈示された問題の答えを解けることではなく、問題を設定できること。

 

僕が今まで世界を読んできた感じだと、人は明らかに言葉を物と扱っている。意を伝達する為の三次元には存在しないはずの物。自分が支配していると思えるし、だから、自分の意が伝わることが当たり前だと思える。話が通じないという観念がまさに。

 

言葉も人間と同じで水物だし、自分のコンディションによって世界の言葉の捉え方が変わるのは誰でも経験しているはずなのに、物から受ける感じは無意識がカットして結果的に従来通りになる。

 

それくらい無意識のメディアとして浸透されているのは凄いことだが、言葉を支配していると無意識が捉えている人は、おそらく言葉に支配されている。言葉は世界を認識する手段だったのに、世界はそうであるという目的になる。言葉で構築された世界観でしか現実を把握できない。

 

この話、きっと誰にも通じないなと思いながら書いている。

 

僕の世界にはもともとそんなに言葉はなかった。というか、決めたり装ったりするために言葉を扱ってなかったし、人もそれくらいの感覚で言葉を扱っているのだろうなと。要は、善意を装った言葉も真に受けてしまう。

 

という悩みは、世界において自分が絶対的優位者とする限り起こらないことで、ほとんどの人に無いことだと悶々していたら、夏目さんが「硝子戸の中」で同じく悩んでいることを書いていた。間に受ける自分の素朴では騙されてしまう、かといって全部疑ってかかれば善い人を傷つけてしまう。これってもっと文学的表現でどこかの作品に書かれていたような。道理と義理がどうのこうの。

 

と、夏目さんの行間まで読もうとする人格。

もう、この世に物理的に存在しないかどうかは、僕の世界観ではあまり重要なことではない。

 

なんだか慰められてしまった。この年代の文士の小説好き。

言葉と「意」が離れている。

 

言葉に込められた「意」ももちろん大事なことだが、これが自分本位だとなんだろうなとは想う。あ、書き漏れる前に、理容院の店員さんが親友の結婚式で大役を担うのが上手くいきますようにと祈っておく。

 

言葉の伝達以上の意味は在る。というか、そういう風にしか僕は言葉を扱っていない。

僕が自分の生活の描写を伝えたいという文意として読み取っているのであれば、それは貴方が伝えたいことしか書いてないからということになる。はとぽっぽが田んぼの稲穂の残り米粒に群がった描写が伝わったところで、僕の人格が暇人であるということしか読めないし、それで何か意味があるのか、いや、ない。

 

祈り的な言葉って基本的に受け入れられる。

害がないからだろうなと思うのだが、たしかに三次元の外にあるからか。

 

僕は三次元の外に在る人に対しても祈っても良いという価値観を構築したから楽になった。生活圏だと心配になってしまう。心配が混在した祈りは自己本位になってしまうので悪手。

 

この行間だと、宵顔さんはずっと遊んでくれたからとても愛おしい。

祈りを嬉しいと言ってくれたし、なんかすごく読んでくれいていた。

 

ただ、現実的に上手く行っている人に対して僕が現実的に想うのはよろしくない。

 

これは存在として場所を取らない方が良いではなくて、取らなくても良いというだけ。

宵顔さんの存在の僕に対する寄与はもう十分貰っている。僕が僕で在って良いというお墨付き。

 

ほんとに現実的に一緒になりたいのであれば、僕がすべきことは毎日私信を送ることではなく、もっと僕を過ごすことで良い。縁があればあるだろうし、無くても僕の中では好きな人として生きている。

 

ほんと、凄く変な人と出逢ったものだ。

これだけ変な人とはもう会わないと想って居るが、あくまで主観でしかない。

 

中学時代の、「なんで分からないのだ」という観念の補足。

別に僕は1を聞いて10を識るような天才ではないし、この分からないは、分からないものとして採り入れることができないかという意味。

 

行動経済学で、人の脳内には複数の基準があるということだし、知識は唯一の判断を補強するものではなく、意識上の支配者とは別の基準を呈するもの。

 

はいおしまい。

 

暖かく安眠していますように。

 

おやすみなさい。