くりあ

 

 

通話しながら日記調の文章は書けないと想った今。発話脳と文章の乖離は甚だしい。これは気が散るのではなく、使っている脳の回路が全然違うのではという思索テーマが起こる。あるいは報告文調であれば。もしくは、統一化できるのか。

 

ちょっと後にして。

 

出かける前に修士論文の紀要で盛り上がりいつもより出遅れる。灼熱具合が優しくて歩行速度を高めれば問題なく挽回できる優しい世界線。表現を研究する科の研究者の卵みたいな人達の瑞々しい論文、絶対漏れなく面白い。こういう話ができる人は空前絶後なのでは(語用合っている?)。

 

仕事では、先生上司が明日は数年ぶりの家族でお出かけということでお休みらしく、うきうき感をお裾分けしていただきほっこり。家族制度は契約関係類似だと思っているが、だからといって楽しんでいるところに水を差す気も無い。良きこと。こういう関係が義務でもないのに、何か自分がしんどいのだぁとかいう言を流すだけ。

 

お昼休みには、日の丸ご飯だけ持っていって、オリジンでおかずを一緒に選ぶ。ヒレカツと、鶏肉とキクラゲとネギの中華サラダ、だし巻き卵を選択。費用対効果で、自炊する労力に高いコストがある人は、こういうところで買う需要があるのだろうなと思う。お金が自分の行動の省略になるという錯覚。いや、とても美味しかった。ただ、僕は休憩時間に並んだり人が多い空間に居たりしたくない。金銭価値とは別に自炊コストの方が低いというだけ。

 

ご飯を食べることも別に義務ではないし。空腹に供給しなくてもしばらくは生きられる。飢餓に耐えると即身仏になっちゃいそうだが。

 

そうして、蚊に刺されまくる地獄の業の深さ(単に血液具合が蚊の需要にマッチしているだけとも思う)を眺めつ、雑談しつつ、仕事に戻る。

 

僕が気楽になった最近の知見は、「人は僕ほど人のことを残していない」というところ。

なるほど、ここが僕の本質上の変人性なのかという感じで、「自分にとって」という前置きがなく人が捉えられている。たぶん時間的に世界線が離れてしまった人達のほとんどは僕のこと覚えてないと想う。一生残るような人はなにか人生上のインパクトがある人なのが通常だろうが、僕の中では、長く過ごした元恋人さんと、中学時代に特に関わりも無かった、体臭がきつくて(きっとそれだけでもない)嫌われ者だった同級生が同じ重さで残っている。

 

 

どうして残っているのかなんてことは、意識とか意志の操作ではないから分からない。

人生劇場ってそういうものだろうという感じ。

 

自分に残っているものを記憶に押し退けるということがなんかオカシイという素朴なのだが、絶対通じないのでやらない。「いま」を人生劇場の最初から最後まで引き延ばすとどうなるかという試行。お勉強ではないから脳は活性化する。

 

「いま」から離れると心も離れるのが普通。

 

ところで、トレードオフってなんだろうなと思っていて、満を持して調べてみた。

「両立できない関係」、あちらを立てればこちらが立たず。なんだろうなと思っていたのはこれがほんまという素朴があったからだろうなと。一見した矛盾というのは極細かい視点から見れば起こり得るが、全体から見たらその矛盾がほんとうに非両立なのかは個人の視点で見る限りワカラナイような。

 

何かは云々であるという言説に意味がないのは、抽象化していけばなんでも類似になるし、例えば、人はウエットティッシュであるという変な言説でも理屈は付けられる。機能と心情の一致みたいな説明。

 

概念をスライドしていく上滑りした文章ではなくて、表現者が当人のものさしで世界を測っているのが楽しい。村上さんの「アンダーグラウンド」は実はここの極致なのかもしれない。きちんとした、他責にしないものさしがあるから、事態自体に移入しないように読める。

 

読む側にはものさしは要らないと思われるが、自分の中のものさしでしか表現物を測れないのが大多数っぽい。漫画アプリの感想文とかで、普通はこうだからそういう描写も書いて欲しいみたいな、とんちんかんな論評があるし。表現物の世界観がどれだけ現実っぽく書かれていたとしても、現実の法則と同じ世界とは限らないし、SFとかファンタジーにすら自分の基準を持ち出せるのはなかなかのお客様は神様感ではないかって素朴な僕は想う。

 

分からん、そんなに世界は都合良くあって欲しいのだろうか。

都合良くないから匿名にというのもよく分からない。匿名圏にもきっと仲間が在って承認関係があるはずだが。

 

ともあれやれやれ。

 

冒頭に戻って来て、発話脳と文章脳と報告脳の異同。

 

発話脳が拙いのは、語彙を合わせるというところにある。発話で通じない語彙は使えないし、要は関係的な言葉の交換だから。もっと穿つと、発話圏内の関係において、言葉はあんまり重要ではないという説。

 

文章脳は気ままに自分の語彙で書けば良いが、文章を書いている以上、誰かには読めなくてはいけないという縛りがある。いちいち定義付けはしなくても成り立っているのは、勝手に読み手の定義の語彙で解読されているから。この気まま勝手さがとても愛おしい。ただ、一方通行なのはどうかなとか。

 

報告脳は、文章として発話脳と近いところにある。

端的に定義付けられた言葉を使う。事実と感想を一致させないってそんな訓練をさせられてない人には無理。事実を感想で味付けして語るのが普通。

 

トータル、聞き手読み手みたいな相手が居ることを前提として言葉を発するってすんげえ難しいこと。言ったから伝わったとか、書いているから分かるべきとか、相手を自分と同視できる存在としてそうな。

 

匿名の一方通行的なメディアが発達した意味も分かるべく。

 

少なくとも、僕は自分の言葉を誰かに通じるべくものとして書いていないのがこの場。

 

マルチタスクやろうとすれば、発信的な存在になることだが、別にこの僕が一般的に伝達できたとして、全然意味がない。読みたい人だけ読めば良いし、申し訳ないけども、僕は自分の文章が読まれたこと自体にはなんの嬉しさもない。何か当人の中で思索が捗ったというダイレクトに返ってこない動きがあれば嬉しいけども、その動きを報告されることも求めていない。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。