中の中

 

 

観測することは観測されること。対象に何も影響を与えないことはない。

 

帰り道の梅がそろそろ満開な感じ。こちらの笑みも連動する。もうちょっとしたらどこかしらの公園でも行こう。梅は微笑みを返してくれないが、そんなのどうでも良いこと。

 

実生活。この事態を受けて、会社の休憩室に「黙食」をするようにという張り紙。良いと思います。話さなくても一緒に食べたい人と食べれば良い。ぼっちに優しい世界。でも、現実界において言葉が疎通に占める割合って10%そこらとのことだし、そんなに不自由はないような。

 

僕が呑みたい人は、近くに居て、生きているのを観測したいだけ、という気もして。具体的に言葉を交換することが想定されていない。

 

 

ところで、相手の目を見て話すという風潮。僕はかなり苦手なのだが、これってコミュ障ではなく、なんだか不躾な感じがあるからだと思った。相手をきちんと見ているともなんだか違う気がする。見ている自分が確立されているだけのような。いや、反応が分かり易いのか。この筋でも、僕のことは見られていないなと感じるだけなのだが、次の機会に実験してみよう。

 

僕は酔っぱらいながら文章を書いているが、観測されうることは前提としている。具体的な誰かが読んでいるとすると影響を受けて合わせるような部分があったが、なんとなく突き抜けてきた感。観測者が偏在していると書くと一気に宗教観だが、まずもって、人には自己という観測者が居て、そこからは一生逃れられない。

 

自己が主体でしかないとすれば、自分がどう見られているかは意識できないし、どう在るのかも定義できない。例えば、犬は自分を定義できない(はず)。反応は変化させることができるにしろ。

 

 

やれやれ。

 

最近は哲学ぽいことばかり書いているが、僕がもっとも客観的時間をかけてきたのは法律学だったりする。哲学とかスピリチュアルも好きだが、それだけでもなく。

 

法律学の物事の捉え方は実践的な人の現実感にもっとも近いのではという感じ。心理学とか経済学とかも近そうだが、経済学は欲求に適うところで、心理学は対象に対する反応っぽい。

 

人間が何かを捉えるとき、無意識が最重視しているのが前例はあるのかというところだと想う。この前例は経験則も然り、自分以外の誰かの見解でも良いし、純粋に対象を捉えることはなく、何かと繋がっていることを正当とする習性がある模様。

 

たしかに、場当たり的にルールが設定されたら、これからにおいて何に準拠したら良いかの指標が全くない訳で、どう行動したら良いかがあやふやになることは怖いこと。

 

最低限の行動ルールはどこにあるのかという探求は現実的なくせに抽象的。

ついでに、法律は意識されないところで作動しているのが本筋。

 

もっと知識的な部分で書いても良いのだが、どうあっても専門用語になって独りよがりになる。夫婦同氏の歴史が150年くらいしかないというのはびっくり。

 

要は、人には学習機能があるゆえに、常に今の対象に対して過去を参照する傾向があって、それを全体的に言語として括ったのが法の最初の方。約束は守られるべきとか。

 

僕がこの分野を自分の言葉として昇華できてないだけ。知識ばっかりあっても何にも遣えない。

 

やり方を変えないと。

 

忘れつつ無意識に収納するのも良いが、忘れないためには自分の中だけで概念化できないと。言語化するのは概念のスケッチであり、僕の思考そのものではない。

 

分かるって、方向を変えても言葉にできること。

自分のこともひと通りの言葉でしか説明できないのであれば分かってない。いや、分かってなくても全然良い。

 

やり方を変えるといえば、今日は洗濯が入ってきたからいつもと家事の順序が変わった。なるほどそういう順番の方が効率的なのかとか。

 

時間がシビアだから炒め物の人参がやや焦げた。

 

生活の試行錯誤ができるというのは、内側の変化。

内側はいくらでも変えて良い。

 

だいたい突き抜けそうになってくると何かを掴めそうになるのだが、なんとなく打ち止めになってやり直しが繰り返される歴史。

 

そこには微々たる進歩がある。

 

進歩というのは、すんごい変な話だが、僕は人に対してむちゃくちゃ気を遣って自分(世界)を制限してきたということ。それが徐々に解放されてきた。誰しも宇宙を持ち合わせていると個人的には想っていても、自分の宇宙を眺められる人はあまり居ないらしい。

 

天才は仮象に自分を留めておける存在だというのが「美学」にあった。

 

僕は自分のことを天才とはしておらず、異星人としているが似たようなものなのかもしれない。

 

ショーペンハウアーさん曰く、通常の人は自分にとってどうかという関心しかなく、自分の中の既定の概念に包摂されたら対象に対する関心はなくなる。他方、天才は、純粋に対象をまなざし続けることができる。

 

ここ。

 

僕はそもそも他人を自分にとってどうかで見てないし、自分のことも何か不安がある人として捉えてなかった。気を遣ってそうしてきただけ。

 

別に人に承認される必要がないから、無駄に文字を綴る必要はないし、インターネット世界で承認されてもあんまり意味はない。あくまで僕を観測する人がどんな人物なのかが気になるだけ。

 

明日から書かないことも可能性的世界にはある。

noteが連続投稿褒めてくるのイラっとする。褒められる為に綴っている訳ではないわって。

 

ということは、時間をもっと別のところに使っても良いとなる。

 

ここの指標は基本的にあいまいなのが人だし。

いままで続いていることは、とりあえずこれからも続くという見込みで注意も敬意も払わなくて良くなる。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。