素直な世界

 

 

 

こころがふわふわ漂っている。生物的な欲求不満が解消されていなくてもすっきりしてしまったのは世界に対して素直になれてきたからだろうな。外にも内にも居ない自分で生きている。

 

全てのいまはなれの果て。

 

(ふわふわしているのは、現実的に見かけられるのが近いのもあるのか、ちょろい我がきもち)

 

外にも内にも居ない自分としての素直さは、別に欲望に従うとか他人を理想化しようとすることではない。言語化がされ得ない無意識の自分ルールが可視化されて、これに従うか従わないかは任意であると気楽になること。

 

常識嫌いと言いながら、自分の中にある普通の塩梅で自分を縛っていた。もともと常識知らずだから、強めに縛るというのはあり。でも、そうしなきゃいけないという意識はやり過ぎで、別にそこまで重しにする必要はなかった。

 

これはどう見られているかを気にし過ぎていたところで、アンバランスさは徒然いままででも書いているはず。こうしない方が良いと思っているほとんどはしたところで特に何かが変わることはない。

 

自分の世界を素直に生きるのはできてきた。

誰とも相互関係しない自分のあるがままを最低限として良い。

 

こういう自己の再構成の文脈で、自分の好き嫌いについて考える。

 

好きな食べ物も嫌いな食べ物も場合によりけり。一応こういう情報って長いスパンで自分を捉えていることは分かる。どんな好物でも満腹状態とか二日酔い状態では要らないだろうし、極限の飢餓常態であればカビが生えたパンでも食べるかもしれない。

 

そんな話ではないのも分かっていて、皆知った上でやっている裏舞台の話か。外に表現される自分の情報として既定しているだけのような。それを聞いたとしても参考値にはなるが、全然その人を知った気にはなれない。嫌いな食べ物があればそれは避けようかとはなるという意味で対応できる情報は増えるか。

 

好きな作家とか、好きな音楽もなんというか話題として対応できる情報として意味はありそうだが、あくまで外部情報という感じがある。まぁ現実的な世界における肉体も外部情報だから、こう接すれば外れないというお互いの行動を既定できるのは省エネにはなりうる。

 

なにやら文句をつけているようだけど、人はそんなところに存在していないと感じているだけ。言葉の書きぶりとか、非言語の振る舞いの方がよほど内部情報に読める。何を考えているかというのも大事だが、思考が言語化される量はどれだけ書くこと、話すことに馴れている人でもほとんど氷山の一角という感じ。

 

人のほとんどは外に顕われないという立場。

自分にとってというカッコ書き付きであれば、有用な情報は外にしか現れないとも言える。

 

 

僕の自分縛りは、自分の中の世界ではほどかれてきたが、まだ人に対して素直になるのはまだやや難しい。認識し得ない他人の中にある自分なぞ保持してあげる必要もないし、できることもないのは分かってきたが、世界観というのはそれぞれあるし、あることを述べる人がたくさんいると、世界ってそんなものなのかと人格にフィードバックしてしまう。

 

例えば、ほぼほぼ統一的見解である、仕事はしんどいとかの疲労にまつわることとか、加齢によって能力が減退するとか、インターネットで知り合った人と会うのは危ないとか。一般論という大まかな網であれば正なのだろうが、僕の世界ではどれも嘘である。でも僕の経験則で嘘ですよって人に言うことはできない。世界観が違うから。

 

もっと素朴な雑談で言うと、自分が何かをしないとかこういう世界観が当たり前だと言う人に素直な自分を表現できるはずもなく。まぁ近くなりたくない他人相手であれば距離を置けば良いのが正解なのだが、遠近感関係なくいっしょくたに人格で調整しようとしていた。飲み会を一切断らないとか。一種のセルフ洗脳。

 

これは相手の要求を断れないのではなくて動かしがたい自分がないというだけ(今もない)。ただ、今となっては、無駄な飲み会だったなというのはある。この自分だったら、さっさと縁を切って本を読んでいた(なれの果てのいま)。

 

何かについて、これはできないよねぇって言い訳するような人の世界観の中で、そんなもんなのかと人格規範を規定して、世界がまどろんでいた時期の話。

 

これに対して、自分はやっていますよと表現することに意味はないから、だいぶ断捨離になった。あくまで世界観とか何を重視するかは別の話で、人は個別に存在しているものとできない人とは接することができない。

 

価値観は関係の中で相互に構築するものだというフレーズを読んだが、価値より存在を問題とした方が良いような気がする。価値観よりも相手の存在が重ければいくらでも調整はきくだろうし。

 

そういえば、今のご時世、恋文の代筆業があるのか。

僕は自分の意の表現を他人に委託することなぞできないが、文章は外部情報として技術的側面もあるのは確か。僕だったら拙いオムライスでも当人の表現を好ましいと思うが、外部情報としての伝達を求めるのであれば、そういう選択肢を選ぶのもあり。

 

だいたい全部あり。

 

では、僕の素朴な世界観とは。

 

まどろんだ世界の中でも何か譲れない自分が居た模様。過去の諸々のシーンが正解だったのだって想起される。

 

自分でも自分が世界に何を読み取っているのかはよく分かっていない。ただ、人で言えば、なんだか素直に僕と接してくれているかどうかを読んでいて、その反射として、僕も素直で居るような気がする。

 

土星人さん(ワームホールの詩をいただいた)は、何か宇宙空間的に心地良い。

お友達は、何か親心みたいな雰囲気が読めることもあるが、放任主義が嬉しい。

 

この感じ、やり取りは前提だが、やり取り外の振る舞いに何かよく分からない僕に対する尊重があると読んでいるらしい。

 

いったん、本の話。

 

火星に住むつもりかい?

 

伊坂さんの本はいっぱい読んだが、国家権力というか、既定された社会の大まかさに嫌悪があるのではという感じ。嗜虐嗜好の公務員が出てくるのだが、案山子が出てきた小説に出てきた警察官が想起される。ヒーローが出てくるカタルシスを書いているが、当人の中では一向に解消されていないような。

 

世界に対して理想がないから、読みたいように本を読むことができないのが現状の世界観。

物語はまるごとその物語として読む。としながら、読み取れてしまうものが間にあるものなのかな。

 

そういうことか。

 

人間関係においても基本的には無いのが前提。

有用性で人を捉えないから理想もないし、人はただ眺めるもの。物理的に近くなったとしても、それで良かったのか。

 

僕のことを決めていないという意味ではまごうことなき単なる他人なのに、他人より近いと捉えていることが読み取れる人にはまぁまぁ素直になれる。

 

実際に当人の中で僕がどういう存在かは知らないし、認識できる領域ではないからどうでも良くて、あくまで僕の中でそんな変な人が居るのかという学習が大事。そんなことが無かったという情報があればすみやかに再学習できるし。

 

素直な本音であるという直感に聞き耳を立てようという次第。

 

まだ自由度がありそう。

もちろん、蔑ろになんてできない。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

良い世界観を。