いかさま

 

世界は「感じ」でできている。

 

 

昼過ぎに買い出しに出かけると空気が少し春めいてきている。春に入場してきたからなんとなくえこひいきしているが、春ってあまり安定した季節ではない。

 

桜は一瞬で散ってしまうし、5月病という言葉もあるし、ぽかぽかというよりじんわり不快に暑い。不安定だからこその入場のタイミングだったのかもしれないが。

 

誕生日にあまり良い想いがないのも、新学期始まって周りと馴染んできてこの話題が出る頃には既に過ぎていて、何やら若干気まずい経験があるから。

 

とはいえ、菜の花が美味しい。少し安くなっていて、辛子とめんつゆで和えた。調べたレシピにもさっと茹でると書かれているのだが、経験則上、この太さの茎はもう少し茹でた方が良いのではというブレーキが入って、柔らかくなり過ぎてしまう。今季二回失敗したから次はきっとうまくいく。

 

僕は二回目までは様子見するからポンコツである。

あぁ、ここも変えられるのか、そうするか。

 

 

さておき。

 

アリを眺めるのが楽しい。構造物の配置とかも決められて、揃えた方が成長させやすいというところと、いや、攻められた時に重要な拠点が固まっていると一気に瓦解しないかというところと。人生を眺める方が楽しいからいつまで続くか分からないが。

 

何気なく眺める文章に、自分の中にある要素との近接性を感じることが増えた。お友達とかの内寄りでないところ。この要素は思想とか主義みたいな固定的なものではなく感触みたいなところ。僕の文章読んでいる人も中には居るかもしれないし、絶対繋がってないよなという人もいる。

 

世界を自分の思いのままに扱って良いものだと気付いたという呟き。だったら、もっと貢献しても良いよなって。僕も世界は所与で充分だから、あとはどう返すかという感覚が起こっている。報恩の概念はあくまで人間の中だけだから、もっと広いところで。嬉しさとか思考の種とか。明日世界が滅ぶとしてもリンゴの種を植えるみたいな。これ、歌詞で流れてきて知ったのだが、ルターさんの言葉だったのかというのを最近他のところで読んだ。

 

世界が思い通りだとしても、独善的に扱えるものではないというのが、noteで読んだスピリチュアル系の話。動画はスルーしているのだが、自分の「意識」の中に神様めいたものが在るみたいな見解は、現実的な意味でしっくりくる。ここに至るためには瞑想とかトランスみたいなものは不要で、とにかく自分の意識を眺めること。何か考えが起こったときに考え自体に焦点を当てるのではなく、それを考え出した自分の意識に焦点をずらしてみる。

 

思考だけでなく、全ての体感でやれば良い。無意識的に動いている間のまどろみに意識的に光を当てるみたいなメタなのだが、やっていくうちにあまりメタでもなくなってくる。自由というか自在の領域は思っているより遥かに広い。世界が選択されたものであるというのもこの辺りから。

 

フロムさんの「生きるということ」で、寝るとき以外全力で過ごすという言はこういう意味であれば分かる。努力という言葉を当てると何か凄いことをしているみたいになるから、自分になる訓練で。意識的(能動的)にいまに生きてみるだけ。

 

そういえば、ノルウェイの森の下巻を混沌とした書庫から掘り返した。いま読む本であればそれほど時間はかからないという感覚。ほんとにすぐ見つかった。

 

変な話だが、もともと素朴な自分はこういう世界に生きていたような感じがある。共時性シンクロニシティ)って、世界がそういう風に構築されているのであれば当たり前で、都合が良い。ただ、他の人はそうでないみたいだから、これって「ずるい」のだなと思ってしまい、まどろみの中で過ごそうとした不自然から、外から見ていると病んでいるように見えることになる。

 

コントロールしようとしなくても、人の感じがなんとなく読めてしまう。真実でも現実でもないが、認識しつつやってしまえばそれは刑法的意味合いでの「故意」になる訳で。読めたとしても閉じてきた。

 

まぁ、ここのところは、ずるとか知らんがな、にして良いとしている。

人を巻き込んだとしても。

 

 

ノルウェイの森の下巻の最初に、本当に病んでいる中学生女子が出てくる。村上作品ってこういう存在が所々に出てくる気がする。スポイルされた美しい少女のイデアみたいな。ここでは、褒められ称えられ過ぎて「努力をする訓練」を怠ってきたから、都合良く世界を操作できるとか。

 

ここで想うのは、僕も努力する訓練はやってきてないなというところ。

高校時代の自分の勉強時間を色分けして縫って提出するというのがほんと嫌だった。国語は黄色で、英語は赤で、数学は青で、歴史は茶色みたいなやつ。ほとんど水増しして提出したのに、絶対的に少ない。ただ、結果は出ていたから特に咎められない。

 

ここからずっとあったのが、時間をかければできるようになるのは幻想よなというところ。滅茶苦茶時間をかけている室長が全然ものにならないのを不憫に思っていた。

 

時間は貨幣みたいに何かと交換できるものではなく、かけた分だけ返ってくると錯覚されているが、選ぶもの。毎日本でインプットしているけど、これを努力とはしてないし、何か褒賞があるとかもない。読みたいから読んでいるだけ。いや、正確には生きていることと同義。ただの自然。

 

「性愛と資本主義」の話はかなり人の本質を突いている。愛撫の相手への届かなさとか。ここにおける性愛は、相手の宇宙において嬉しさとか悲しさとしての経験の中に自分が居るという選択的な単一的に括られた世界。

 

要は、性愛って、存在としての近接性を前提としている。

 

これって突き詰めていけば、人とできる範囲でもある。

存在に心を悼められるかどうかの区域。

 

某国のアレとか。感情で繋がっている世界には区切りがなく恣意的であって、選んでいる。過去に理不尽に命が失われた人はいっぱいいるし、リアルタイムでもそう。物理的に近く居た所で、リアルタイムで当人を見られる訳でもないんだよな。物理的にそこまで人を気にできないし。

 

こういう意味で宵顔さんを捉えたとき、何やら近さを感じる不思議。

でも、同じ境界で捉えているという証左はないから、幻想で良い。

 

ともあれ、これからはいっぱいずるして生きようとなっている次第だったのであった。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。