かけら

 

 

遊んで暮らしている。

 

 

豆苗の「みょー」に水やりをしつつ、送別会でいただいた「育てる水草」も育てることにした。良い感じのグラスに土を入れて湿らせて、まずは発芽を待つ。20〜30日で生えてくるらしい。それまでにはきっと生活が変わっているだろうな。

 

 

特に生産的なことはしていないが、インプットとアウトプットは怠っていない。自家製ドレッシングの腕前も上がっているらしいし。生活は継続ではなく変化を伴っている。変化とはすなわち遊び。

 

運試しで勝ったあぶく銭を遣ってスーパーで晩餐用の焼肉を買ってきた。副菜には、蕪の浅漬けとほうれん草の胡麻和え、ついでにベビーリーフサラダもあるから、ビタミンも足りている。自分の為だけに使いたいお金ってあんまりないから、稼いでも漂流させる分が増えるだけな気がする。本だって充実した図書館が徒歩圏内にあるからあえて購入する必要がないという意味で言えば、面白い古書店が生活圏にあった前よりも発展したとも言える。ほんといい図書館。国立国会図書館ほどにセキュリティも重視されていないし。

 

行きたいところと言えば、もともとの実家のところに誰かを連れていくとか、鳥取に旧友探しに行くとかあるが、これはお金というより意思の話。個人的には、「檸檬」とか「猫町」みたいに、変化は物理的な移動距離ではなく、当人の世界観によるという立場寄りだから、移動だけに変化を求める人間性はそんなに好まない。

 

遊んでいると頭が義務化しないからクリアになる。クリアになった頭だと、社会の基本とされている価値観がかなりハリボテというか、撮影スタジオ(最近シン・エヴァンゲリオンを見た)の様相だなという感じ。別にアウトローになる気もない。儀式めいたことに無駄に感情を流されることはやめようかというだけ。

 

職探しも培ってきた人格をチップとした運試しでしかない。適性とか条件より遥かに大事な職場に属している人達との相性が就活している外部者には分からないのってほぼギャンブルの領域だと思われる。こういう努力で左右できない領域はスキルではないからアドバイスしようもない。だから、条件とか統計とか振る舞いとか外側の事象に頼るしかない。

 

だからなんなのだという話だが、人生劇場において因果関係がはっきりしている事象は半分にも満たないのだろうなというところ。因果関係ばかり問題としていると、その外に対応できない。もちろん対応できなくても当人の人生劇場は貫徹できるから問題ない。問題は当人の他人の扱いにある。

 

満月さんの本から狩猟できるから、お風呂読書が捗る。「境界例」という精神分析の本。この本を選んだのはなかなか闇深いが、その闇深さからはもう脱却してそう。僕が居るからなのか、そういう世界線になったから僕と過ごしているかは未分離。

 

未分離というのがこの本のテーマで、人との境界が未分離な人が他人を物として扱うというのがあるらしい。生命保険を得るために子供を退場させる人は人を手段としているのは明らかだが、引きこもりの子供の相談で、人が宇宙まで出て行ける科学の時代に子供を学校に出させることはできないのですかと聞いた母親に対して、こういうのは(愛っぽいが)、他者を操作できる物として扱っていないかという話が冒頭。

 

たしかに、世の中のことが分かっていない子供に対して物理的な命を守るという意味での操作は必要なこと。ただ、子供って大人より余白があって賢いから、ほんとに自分の為に言われているのか、大人の保身の為なのかというのは肌感で分かっている気がする。ほんとに危険だからではなく、大人が嫌だからという感じ。下世話なアニメを見させないとか。

 

我が家はそういう操作はなかったが、母親の気分によって穏やかな世界と嵐のような世界の二元論が激しかった。

 

都合の良い人は誰にとっても理想的かもしれないが、僕はそもそもこういう家庭で生きてきたから自分にとって自分がどう都合良いかという世界観がない。たぶん操作しようとすればできるのだが、それで操作された人ってペットみたいな存在でしかないし。他人をペットとする世界観は頻繁にある。自分がしんどいとしていることを埋めてくれるとか、自分の生活観に相手が合わせてくれるということがすなわち愛だ、みたいな感じ。それは奉仕であって愛ではないという説。

 

この文脈で言うと、満月さん一家の美点は他人を特に操作しようとしないところ。自分が自分を外から操作しなくて良いという価値観は割とある。ただ、他人に対してもそうなれるかというと、そうはいかないことが多い。人生劇場が完結した壁に囲まれた街であると、その壁に入って来られる人にしか寛容になれないのも分かる。

 

パートナーが良い人だって語る記事は多いけど、ほとんどが都合の良さで書かれている。ある意味ペットなのだろうなというのはやや言い過ぎだけど、少なくとも僕はそういう風に語られたくない。だってこれって、都合が悪くなったら切り離される存在でしかない。この世界観だと、当人も相手からさよならされる。まぁ、たしかに空気の入れ替えって大事だから、劇場としては分かる。

 

劇場ではない人って、要は、影響は受けるけど物ではない人。

人は物ではないという人権論の話はしていない。人権論って人を物扱いしているとか言い出すと人権団体が大挙してくるかもしれないが、無個性でも価値があるという考え方自体がまぁまぁの物扱い。物理的、法的な扱いを均すというのはそういうことであって、本質的な当人の物でではない人格はどうでも良いという扱い。

 

満月さんも僕を操作するつもりがないみたいだから、コンロの掃除もできる。

 

個人的に、誉の為に動かなくても良いという意識はとても自由。

こんなに広くて良かったのかって。僕の読者さんも僕のモチベーションを上手く捉えて居る。これってどうでも良いと紙一重なのだが、少なくとも読んでいる徴みたいにスキされるように僕の文章を読んでいる人には萎える。

 

mixiにお弁当画像載せていないからそろそろ載せまいかと思うのだが漫画の先生はそこは特に気にしていないから好き。

 

僕が好きな人は、基本的に僕のことを物扱いしていない人。直近の職場で言えば退職した駒とバーベキューに参加するのかという感じ。

 

僕が母親とあんまりやり取りしたくないのは、僕の存在が母親の人生劇場において駒っぽいから。僕がどうかというより、そもそも当人の存在劇場が駒っぽいから、人生自体がそういう世界観になっている。費やした分が返って来るというのは愛がないと返ってこない。

 

 

対価が返ってこなくても良い領域で遊べるか。

仮に満月さんが僕のことを嫌いになって、追い出される世界線もある。

 

なんでもいいところに居てくれる人が素晴らしい。

 

今日はここまで。

 

おやすみなさい。

 

よい夢なり嫁なり現実を。

 

また明日。